《MUMEI》
水無月
ぼくの敬愛する先生は素晴らしいお方だ、紫紺の着物がよくお似合いで今年で齢三十四になられるのに、老いの片鱗はぼくが先生に拾われてから三年と三ヶ月、全く見受けられない。

口元に一つ黒子が有り、笑うと其の優しげな目尻は一層柔らかくなる。

ぼくの敬愛する先生(此処からは僭越ながら先生と記述させて戴く)は立派な作家様で在られる。

ぼくにはまだ難しい海外の文章を翻訳されたり、うら若き乙女がうっとりするような戀愛小説なんかを書かれている。


「雨は嫌いだよ髪形が見ておくれ、みっともないだろう?」

確かにいつもより、先生の髪形は乱れていた。
そんな先生がいつものように髪をかき上げる仕草は格好良いとぼくは思う。


「先生、紫陽花が咲いてますよ。」

窓を強引に開いて真っさらの原稿用紙をよく見えるようにした。
先生の家の庭からは沢山の種類の草花が季節毎に生える。
病で亡くなった奥様が植物を好きだったそうだ。

誰しも先生の奥様は美しい大和撫子だったと語る。
裕福な家庭に育ちながら十代の頃、当時売れない作家だった先生と駆け落ち同然に家を飛び出したらしい。
先生が作家としての地位を確固たるものとしたとき奥様は病に伏せられ亡くなってしまわれたのだ。


病に伏せられた奥様の為に先生は庭に沢山の草花を植えたと謂う。


奥様が亡くなられた場所で現在の先生の仕事部屋は季節と先生の奥方への想いを感じさせる。






「おいで。」

先生が手招きするので近付くと原稿用紙にでんでん虫が大量に這わさっていた。


「うわあ!」

情けない声を漏らしてしまった。


「やあ蝸牛言きに情けないね。」

先生は少年のように、無邪気だ。
嘘偽りのない先生の正直さが美しい文章を作り出すのだ。

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