《MUMEI》

ぼうっとするわたしをよそに、柊はベンチから立ちあがると、白詰草をひとつ、摘みとった。
その、白く可憐な花を、わたしの方へ差しだす。

「栞が、すきだった花だよ」

柊はやさしい声で説明してくれたけれど、わたしは黙りこんだ。わたしがすきだった、と言われても、今のわたしには、それがわからない。ほんとうに白詰草がすきだったのか、それすらも。

彼が手にしている白詰草から目をそらし、わたしは俯いた。



わたしの名前は、佐久間 栞。25歳。
家族は、お父さんとお母さん、そして姉がひとり。

ボーイフレンドの榊原 柊とは、同い年の幼なじみ。



それが、《わたし》。

みんなが愛していた、《佐久間 栞》という、女の子。


でも。


わたしには、わからない。


みんなは当たり前のように、わたしの名前や、生い立ちを話してくれるけれど、それが真実なのか、それとも嘘なのか、自分でもわからない。

変な話だ、とおもった。

すべて自分のことなのに、なにひとつ、わからないなんて。



柊は、もう一度ベンチに座り、俯いて黙りこんでいるわたしの手をとった。壊れものをあつかうようにそっと、白詰草をやさしく握らせる。わたしは顔をあげた。柊は真剣なまなざしを、わたしにむけていた。

すこしの沈黙のあと、柊は言った。


「俺は、栞のそばにいる。どんなことがあっても」


わたしは瞬いた。柊は切なそうに目を揺らしながら、つづけた。


「約束、する。俺は、絶対−−」


それは、わたしにむけられた台詞だったが、なんとなく、柊が自分自身に言い聞かせているように感じた。


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