《MUMEI》 『シュウ』わたしが黙りこんだことに、気がついた静さんは、あわててほほ笑みをうかべた。たぶん、わたしが記憶をなくしていることを、一瞬、忘れてしまったのだろう。 その場を取りつくろうとしたのか、彼女は白詰草を手にとると、押し花にしてあげる、と申しでた。わたしは、お願いすることにした。 そうこうしているうちに、お母さんが大きめのガラスのコップを手に、部屋にもどってきた。 静さんが、花瓶を買いに行ったんじゃないの?と、眉をひそめながら尋ねると、お母さんは、売ってなかったからその代わりにコレを買ったのよ、とサラリと答えた。 花瓶の代わりにコップを使うという発想に、わたしはすこしたまげたが、お母さんは別段、気にしたようすはなかった。わたしにあずけた花束をうばうと、呑気に鼻歌を歌いながら、すぐにコップに水をそそぎ、ピンクのバラをいけはじめた。 お母さんの鼻歌を聞きながら、静さんがまた、あきれたように、やれやれ…とため息をついたのが、見えた。 ◆◆◆◆◆◆ その日以来−−−。 わたしは、すこしずつだが、記憶を取りもどしはじめた。 ふとした瞬間にかいま見る、おもい出の断片をかき集めて、記憶をつなげていった。 ところどころ抜けおちたものもあるが、それでも、お父さんやお母さん、そして静さんは、わたしがちょっとずつ、記憶をおもい出していることを、とても喜んでくれた。お医者さんと看護婦さんも、頑張ってますね!とほめてくれた。 そして、そんなみんなの明るい顔を見るのが、わたしはうれしかった。 けれど。 柊だけは、違った。 わたしがだんだん過去のことをおもい出しはじめたことを、あまり快くおもっていないみたいだった。 暗い目をして、わたしから顔を背け、それを指摘すると、あいまいに笑ってごまかすのだ…。 前へ |次へ |
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