《MUMEI》 優しさの裏側千夏は紳士と歩きながら話した。 「あんなに見事に話を合わせていただいて、本当にびっくりしました」 「あれくらいのアドリブがとっさに浮かばないようじゃ、浮気はできないよ」 「浮気?」 「いや、何でもない」 そういえば、どこかで見た顔だと思ったが、千夏は思い出せなかった。 「あの」 「何?」 千夏はつぶらな瞳で紳士を見つめた。 「助けてほしいんですけど」 「え?」 「あたし実は、ロッカーの中に入れてた財布から着替えから全部盗まれちゃって」 紳士は驚いた。 「そうなの?」 「水着のまま夜の海に取り残されたら、あたし…」 泣きそうな顔をする千夏の華奢な肩を、紳士は優しく触った。 「大丈夫。僕が何とかするから。不安に思わなくてもいいよ」 「本当ですか。ああ、優しい人で良かった」 「僕の名前は広矢勇一。君は?」 「ゆういちさん。あたしは雪舞千夏です」 「ゆきまい…。漢字を一発で当てたら何でも言うこと聞くっていうゲームしない?」 「雪が舞うです。千夏は千に夏でちなつ」即答。 「ダメだよ、言っちゃあ」 紳士ではないかもしれない。千夏は少し焦った。 しかし広矢勇一は電光石火で手を打ってくれた。銀行や携帯電話の会社に連絡し、警察にも電話をした。 「被害届は警察に来てくれって」 千夏は俯くと、水着の紐をいじった。 「でも…」 「千夏チャン。売店でTシャツと短パンを買ってあげるよ」 「お金は必ずお返しいたします」 「いいよ。プレゼントするよ」 やはり紳士だ。千夏は信用した。 広矢勇一は海の家に入った。千夏は臨戦態勢。店主は千夏を見ると笑った。 「おっ無事だったかい。心配したよ」 千夏は無言で睨む。勇一は二人を交互に見ると、聞いた。 「千夏チャン、知り合い?」 「敵」 「敵!」 店主と勇一は声を合わせた。 「人が逆らえない状態のときに意地悪するなんて、最低」 「あんたが梅干しバーサンなんて言うからだろ」 「千夏チャン、梅干しバーサンはひどいよ」 「言ってませんよ!」 「せめてマントヒヒのおばさんくらいで止めておかないと」 「ホントだよって…こらあ。もっとひどいだろ!」 千夏は笑いそうになったので背を向けた。 「そうだ。この子にTシャツと短パンを買ってあげたいんですけど」 「好きなもの持って行きな。逆恨みされたらかなわないからね」 「逆恨みじゃねーじゃん」 「千夏チャンどれがいい?」 千夏は見向きもしない。勇一は察知して、赤いTシャツと白のショートパンツを手にした。 「かわいいの選んだね。ダメだよ。美少女を毒牙にかけちゃ」 「何をおっしゃるウサギさん」 「ウサギって顔かよ」 千夏の呟きが聞こえた。店主がまた絡む。 「そこのガキンチョ女子大生。ウサギじゃなかったら、なんだい?」 「いいとこオランウータンだろ」 言うと、千夏は逃げた。 「千夏チャン!」 「だれがオランウータンだ!」 勇一は慌てた。 「すいません、すいません。叱っておきますから」 しかし店主は手で眼鏡を触ると、勇一を直視した。 「あれ、あんたテレビで見たことあるね」 「人違いですよ」 勇一もTシャツと短パンを持って店を出た。千夏を追いかける。 「千夏チャン!」 「すいません」 先に謝られると弱い。勇一は服を渡した。 「まず着ちゃいな」 「勇一さん。このご恩は一生忘れませんから」 「一週間でいいよ」 二人は警察へタクシーを飛ばし、被害届を出した。そのあとレストランに入り、窓際の席にすわった。 「千夏チャン、おなかすいただろ?」 「勇一さんって、ホントに優しいですね」 「だれにでも優しいわけじゃないよ」 セリフがいちいち引っかかる。千夏はうまく交わすしかなかった。 「遠慮せずに好きなもん頼んで」 「ありがとうございます」 二人はハンバーグステーキにドリンクバーを注文した。 千夏は勇一の光る目に、やや緊張していた。 前へ |次へ |
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