《MUMEI》
怒虎乱
千夏と勇一は食事を済ませると、ドリンクを飲みながら話した。
「これからのことを話そう」勇一が言った。
「これからのこと?」
「僕たちの未来について」
「はっ?」
「千夏チャンは冗談通じないほう?」
「いえいえ、通じますよ」千夏は笑った。
「僕の場合、全部冗談だから。いちいち怒っちゃダメだよ」
「わかりました」
勇一はアイスコーヒーをひと口飲むと、店内を見回してから声を落とした。
「千夏チャンは家どこ?」
「東京です」
「東京かあ。ちょっと遠いね」
「はい」
「今から帰ると夜遅くなっちゃうね」
「てゆうか、電車賃がないです」
勇一はまた店内を見渡した。
「あっ、僕のことは信用してもいいよ」
「もちろん信じてます」
真顔で自分を見つめる千夏にドキッとしながら、勇一は名刺を出した。
「ほら、名前も嘘じゃないし」
千夏は名刺を手にとって見る。
「広矢勇一…社長?」
「そうなんだよ。だから海で社長って言われたとき、だれだっけと思ったんだ」
千夏は口もとに笑みを浮かべると、カルピスをストローで飲んだ。
「旅館泊まる?」
勇一の一言に、千夏はドキッとした。
「あたしは、勇一さんに任せるしかない立場ですから」
俯く千夏に勇一は優しく聞いた。
「ホテルと旅館と、どっちがいい?」
「安いほうで」
「まさか僕の泊まってるホテルに、泊めるわけには行かないからね」
「え?」千夏は顔を上げた。
「ウチの奥さん結構神出鬼没だから」
「あっご結婚されているんですか?」
「独身に見えた?」
「そういうわけでは」
勇一は再び店内に目を配る。
「前も沖縄に出張したときに、奥さんに電話かけたら今北海道って言うからさあ。安心したら真後ろにいたんだ」
「へえ…」
「いきなりコブラツイストだよ」
「コブラツイスト?」千夏は笑った。
「一緒にいた女の子は逆エビ固めだよ。スカートなのに」
「浮気はダメですよ」
「浮気なんかしてないよ。会社の女子社員だよ。違いますって泣きながら弁解してるのに、懲役1時間とか言って許さないからさあ」
「そういうときは勇一さんが女の子を助けなきゃダメですよう」
「僕はコブラツイストのあとドロップキックですでにKOされていたからね」
千夏も店内が気になった。さすがに身の危険を感じる。
「奥さんって激しい性格なんですね」
「激しいよ」
「専業主婦ですか?」
「元女子プロレスラーだよ」
あっさり言った。千夏は怯む。
「女子プロ…。有名な人ですか?」
「怒虎乱だよ」
「ドトラ、ラン?」千夏は蒼白。「怒虎乱!」
千夏は前にテレビで見たシーンを思い出した。タイトルマッチの調印式。チャンピオンの怒虎乱がマイクを握る。
「今回タイトルマッチになっていますが、時期尚早というか。彼女の未熟さを考えると、特別試合が妥当かと思います」
挑発には挑発で返すチャレンジャー。
「おい、乱。ベルト奪われるのが怖いんだろ?」
「何テメー。言葉間違えるとこの場で命落とすぞこらあ!」
「上等だよ!」
「いいから特別試合にしとけ」
「納得いかねえよ」
「納得いかねえ?」
怒虎乱はいきなり机をひっくり返した。カメラのフラッシュが光る。
「テメー、プロレス舐めてんのかこのヤロー。この場で頭かち割ってやろうかこのヤロー!」
映像が消えると、千夏は勇一を見た。
「旅館に泊まります」
「そのほうがいいよ。お互いの命のために」
千夏はやっと思い出した。
「勇一さんテレビで見たことありますよ」
「そう」
「浮気が発覚したとき、出てましたよね?」
「浮気なんかしてないよ。テレビは面白おかしく不倫帝王とか間違ったイメージを植え付けたがるんだよ」
「ふーん」
「僕ほどの愛妻家はいないよ」
「ふーん」
「疑ってるね」
「もちろん信じてますよ」千夏は笑った。
「君は笑顔が素敵だよ」
「それがいけないんですよ」千夏は睨んだ。

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