《MUMEI》

乾杯をすると、千夏はひと口飲んですぐにグラスを置き、礼儀正しく手を合わせた。
「いただきます!」
野菜炒めを食べる。
「嘘、美味しい!」
「千夏はお世辞がうまいな」
「お世辞なんて言ったことないですよ」
しかし乱は涼しい顔で瓶を握る。
「何だ全然飲んでねえじゃねえか?」
千夏は仕方なくビールを少し飲んだ。
「一杯目くらい一気に飲めんだろ?」
「乱、無理やり飲ますのは良くないよ」勇一が口を挟む。
「ウイスキー無理やり飲ましたのはどこのどいつ人だ?」
「うっ…」
勇一を黙らせると、乱は千夏に迫る。
「私の酒が飲めないと?」
「いただきます」
千夏はグラスを空にすると、乱にビールを注いでもらった。
「ありがとうございます」
「グイグイ行きな」
「酔わせて口を滑らせる作戦ですか?」千夏が冗談混じりに言う。
「そう」
「そうって…」
冷たい空気が居間を支配している。勇一は味がわからないほど緊張していた。
「二人とも何か喋れよ。知らない仲じゃないんだから」
「乱さん冗談きついですよ」
「積もる話があんだろ?」
「ないですないです」
明るく誤魔化す千夏と沈黙する勇一。
「千夏はあの夜さあ…」
「あの夜ってどの夜ですか?」
「裸で寝たの?」
「プッ…」
危うくビールを野菜炒めに噴き出すところだった。
「バスローブ着て寝ましたけど」
「全裸で寝たって話だけど」
千夏は勇一の顔を見た。
「旦那さんが何て言ったかは知りませんが、裸で寝ることはあり得ないです」
千夏が真顔で言うと、乱は笑顔でビールを注ぐ。
「ありがとうございます」
「普段は?」
「普段はパジャマです」
「ふーん」
このままではまずい。千夏は野菜炒めを食い、ビールをグイグイ飲んだ。
「おっ、行けるじゃん」
乱が喜んでビールを注ぐ。勇一が心配した。
「無理する必要はないよ」
「無理なんかしてませんよ。料理が美味しいとビールも進むんです」
「この顔で口達者じゃ、男が騙されても男を責められないかな」
「乱さん、人聞きの悪いこと言いますね」
千夏は野菜炒めを平らげると、わざとビールをガンガン飲んだ。
「酔ったかも」
千夏は瓶を両手で持つと、乱や勇一にもビールを注いだ。
「旦那さんと乱さんの出会いってどんなだったんですか?」
「いらねえよそんな話」乱があっさり却下。
「すいません」
千夏は目を閉じたり開いたりして見せた。乱は先に休む作戦に出そうだ。二人残されるよりは、先に寝たほうがボロが出にくい。
それに、普通の来客としても、夫婦水入らずにするために、遠慮するものではないかと千夏は考えた。
「あれ…」
「どうした千夏?」
「すいません。力が入らない」
「大丈夫か?」
「おまえが無理に飲ますからだろ」
「うるせえ」即答。
千夏はぐったりした。一世一代の名演技だ。実際顔は真っ赤だから演技には見えない。
「千夏待ってな」
乱が和室に入ると、布団を敷いた。恐縮したが、千夏は今にも倒れそうな感じに見せた。
「おい、千夏を抱いてくれ」
まさかそんな!
「大丈夫です、大丈夫です」
千夏は和室に自力で入ると、布団に寝た。
乱が着替えを枕もとに置く。
「すいません乱さん」
「私がいけないんだ、飲ませ過ぎた」
「いえいえ」
乱が優しいので千夏は嬉しかった。
「おやすみ」
「お休みなさい」
ふすまが閉められた。千夏はとりあえずホッとひと息。我ながらリアリティ溢れる名演技だと思った。
居間では夫婦水入らずで何か会話している。このまま朝を迎えれば一件落着だ。
しかし千夏は寝付けない。普段彼女は全裸で寝ているのだ。
パジャマを着ているうえ違う天井を見ながらでは、なかなか眠れない。
若い女が寝ている部屋を開けはしないだろうと思い、千夏はパジャマと下着を脱ぎ捨て、布団に潜り込んだ。
清潔な布団。肌触りが気持ちいい。すぐにスヤスヤ眠れた。

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