《MUMEI》
撮影開始
ここまで来たら行くしかない。相手が自分を「欲しい」と言ってくれているのだ。
これがもし詐欺だったら、観念するしかない。怖いけど凄い冒険心を発揮して、静果は未知の世界に飛び込んだ。
翌日はアルバイトをキャンセルし、朝からワイルドSのスタジオに行った。
スタジオと言えば聞こえはいいが、まず駐車場は砂利道で、古い汚い倉庫が2つ。
中に入りきれないのか、ソファやベッドが倉庫の外に置いてあり、ブルーのシートを被せて黒いゴム紐で縛っている。
静果は少し怯んだ。
倉庫の前には赤いポストが立ててあり、ワイルドSと書いてある。ここに間違いない。
「おはようございます」
倉庫の扉を開けてみた。開かない。本当に大丈夫だろうか。静果は段々心配になってきた。
ただ倉庫の扉にセコムのシールが貼ってある。防犯対策はバッチリのようだ。
やがてワゴン車が到着。駐車場に滑り込ませると、サングラスをかけた火竜久一郎が車から出てきた。
(柄悪過ぎ…)
火竜は静果の姿を見て、慌ててサングラスを取った。
「おはよう!」火竜は無理に爽やかな笑顔をつくる。
「おはようございます」
白のワンピースで可憐に決めている静果とは対照的に、火竜は赤のジャージ姿。しかも凄く似合っている。
(やっぱり組員?)
火竜は倉庫の扉に掛けてある鍵の数字を合わせた。
「あたしもセコムセット覚えないと」
「ん?」
何のことか、という顔で火竜が普通に扉を開けて中に入った。
「あれ?」
ピーピーと音が鳴るはずが鳴らない。
「火竜さん、セコムは?」
「ああ、あれは前にこの倉庫借りてた会社がセコム入ってたんだ」
「何だ」静果はホッとして笑みを浮かべたが、怖々聞いた。「でもシールは剥がさなきゃいけないんじゃないんですか?」
「いや、番犬いないのに猛犬注意ってシール貼るのと同じでよう、ちょうど防犯になると思って」
そう言うと、さっさと事務所らしき部屋に入っていった。
「法に触れてねえか?」静果は小声で呟くと、火竜のあとを追った。
事務所といってもドアはない。倉庫の端に仕切りをつくり、そこを事務所にしただけだ。
静果は恐る恐る中に入った。部屋の中にはデスクが並べてあり、パソコンやコピー機、ファックスなど事務所らしい機械が置いてある。
冷蔵庫や電子レンジ、エアコン、ロッカー。それに洗濯機やキッチンなどもあり、静果は少し安心した。
火竜は電気をつけたり、エアコンのスイッチを押しながら、静果に言った。
「倉庫の中は綺麗だから安心しな」
「いえいえ…」
乱雑だと顔に出ていたのだろうか。静果はやや緊張した。
「この辺でいつも撮影するんだ」
撮影に必要な家具が見える。トイレは男女別々で更衣室やシャワールームもあり、静果は自然に笑みが浮かんだ。
彼女は派遣社員だったから、いろんな会社で働いた。セクハラ対策に無頓着な会社では、女子が入れないような悲惨なトイレもあった。
その点、この倉庫は大丈夫そうなので、静果は胸を撫で下ろした。
「おはようございます」塚田が来た。
「おはようございます」
「あ、綺麗な服、汚さないようにね」
「ありがとうございます」
優しくされるのは、やはり嬉しい。パワハラ、セクハラが日常茶飯事の派遣バイトを経験したおかげで、普通の優しさも心に染みる。
「おっはよーさん」
若い女性が5人ゾロゾロと入ってきた。
「おはよう」火竜がきさくに挨拶する。
「おはようございます」
明るく挨拶する静果に、やや挑戦的な目を向けた5人は、笑顔で返した。
「おはよう」
「女優だよ」火竜が言った。
「あ、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる静果に、一人が言った。
「女優よりスタッフのほうがかわいいってヤバくね?」
「そんなことないよ」塚田が無理にフォローする。
簡単な打ち合わせのあと、撮影が開始された。台本は静果の小説だ。
(緊張するう!)

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