《MUMEI》

夏希は、囁くような声で話した。
「静果。あたし、倉庫でマジギレしちゃって、センター長を怒鳴ったの」
『え、あの例のヘルメット?』
「我慢できなかった。しつこく怒鳴って来るから」
『地獄に落ちるよ』
静果の怒りが伝わってくる。自分のために、わがことのように激怒してくれている。
夏希は胸が熱くなった。
「これで断崖絶壁。静果に助けてもらわないと」
苦笑する夏希に、静果が慌てた。
『何言ってんの。困ったときはお互い様じゃん。夏希勇気あるよ』
勇気…。まさか。夏希は言葉を返した。
「勇気じゃないよ。卑怯なだけよ」
『ヘルメットが?』
「違う。あたしが」
『何で?』静果は本気で驚いた。
「断崖絶壁なんて嘘。だって。静果の話聞いて、当てがあるから怒鳴り返せた。勇気じゃないよ」
電話の向こう側で、破裂したように静果が号泣した。夏希は目を見開いた。
「……静果」
『生活を第一に考えるのが卑怯なら、世の中終わるしかないよ』
「静果」
夏希は決めた。静果と一緒に働きたい。心底そう願った。
夏希はもう一本電話をした。派遣会社の所長だ。
「冨田です」
『あ、聞いたよ。現場から電話かかってきた』
「会社にはご迷惑をおかけしましたが、私は悪くないと思っています。あれはひど過ぎます」
『わかってるよ』
「え?」
所長とも口論になると思って身構えていたので、肩すかしだ。
『冨田さんの日頃の勤務態度から考えると、よっぽど頭に来たと想像できるから』
「あ、いや」
予想外の展開だ。
『きょうも働いた時間分はお金出るし、その現場には入れないけど、ほかは入れるから』
夏希は怒りがゆっくりと消えていった。
『辞める必要はないよ。でも今度は怒鳴る前に電話して。仕事中でも。間に入るから』
夏希は涼風を心に感じた。世の中、まだまだ捨てたものではない。
夜。
リビングのソファで、いつものように水割りを飲む静果と火竜。
赤い893ジャージも静果は見慣れた。しかし火竜は、静果のパジャマ姿にはまだ慣れない。
きょうはグリーンだが、理性を総動員しなければポーカーフェイスは保てない。
「火竜社長」笑顔の静果。
「何だよ社長って?」
「あたしの一生に一度のお願いって聞いてくれます?」
「一生のお願い?」
火竜はやや警戒した。想像がつかない。静果はにんまりと哀願に近い目で返事を待つ。
正直反則だ。
「何だよ?」
火竜が聞くと、静果はソファにもたれた。
「静果の一生に一度のお願いなら、聞くしかないなっていうセリフが欲しかったですね」
火竜は参った。硬派な生き方を静果にクラッシュされそうで怖い。
「巻き戻してもいいか?」
「アハハ。いいよ」
「静果の一生に一度のお願いなら、聞くしかないな」
「ありがとう」
静果は少しまじめな顔になる。
「実は、あたしの友達に女優目指してる子がいるんだけど、会ってくれますか?」
「かわいいの?」
火竜の質問に、静果はすかさず携帯電話を開けた。
「プリクラはダメだぞ。あれは魔法だから」
「プリクラじゃないよ」
静果は口を尖らせると、火竜の隣にすわった。
「この子」
火竜はすました顔で携帯電話を覗く。
「かわいいじゃん。静果には負けるけど」
「よく言うよ」
しかし喜んでいる場合ではない。夏希を売り込まねば。
「中学、高校と演劇部だよ」
「ほう」
「空手もやってるよ」
「空手?」火竜が興味を持つ。
「性格も凄くいいよ」
力説する必死な静果にも魅了される。火竜は間がもたずに水割りを飲んだ。
「あ、そうだ、ケータイ小説も書いてるよ」
「マジか?」
静果は急いでケータイ小説サイトを開き、火竜に携帯電話を渡した。
「夏希。本名で出てるんだ。静果もそうだったな」
「読んでみて」
火竜はタイトルを読み上げる。
「日焼けサロン。コインランドリー。内容はヤバいか?」
「ヤバいよ」悪戯っぽい目の静果。

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