《MUMEI》 . これ以上、自分を見失いたくない。 そうおもい始めていたとき、 わたしに、新しい仕事が来た。 それは、今までとはまったく違う種類の仕事で、 そんなこと、やりたいともおもわなかった。 そう言ったら、 お母さん、なんて言ったとおもう? 『わがまま言わないで、働きなさい!みんな、迷惑するでしょう!!』 信じられない気持ちでいっぱいだった。 みんな、なにもわかってない。 わかってくれない。 …………違う。 わかろうとも、しないんだ。 わたしは自分の意思すら、口にすることが出来ない。 わたしは、ここにいたら、ダメになる。 そうおもって、 …………あの夜、 ぜんぶ捨てて、飛び出したの−−−」 俺はなにも言わなかった。 稟子はいつの間にか、涙声になっていた。 「消えたかった。どこか遠くへ逃げたら、 この気持ちは楽になるんじゃないかって。薄暗い山道を歩きつづけて………」 そこまで言って、稟子は少し身体を動かした。ゆっくりとこちら側を振り向き、タオルケットをスルリと滑らせて、 泣き濡れた、美しい顔を、俺にさらした。 彼女は涙をいっぱいに湛えた瞳で、俺を見つめたまま、小さな声で呟いた。 「………そして、アンタと出会った」 俺は言葉をなくした。 稟子は、きれいな形をした唇を弓なりに歪ませる。 「最初は、なんて失礼なヤツ!!っておもったわ。わたしのこと、犯罪者扱いしたんだもの。マジありえない!?ってね」 俺は瞬く。 言われてみれば、そうだった。 初めて稟子と会ったとき、確かにどんな悪さをしたのかと勘繰っていた。 稟子は目元にほほ笑みをにじませて、つづける。 「でも、アンタはなにも聞かないで車に乗せてくれて、 仕事中なのに、わたしのこと気遣かってさ。それどころじゃないのに。 ホントに、バカで、エロくて、喧しくて、 口も悪いし、素直じゃないし、 けど。 ………不思議と、すっごく、居心地が良かった」 胸が、張り裂けそうだった。 今、俺の中にくすぶっている、この熱い想いをぶつければ、 あの細い肩を、力いっぱい抱き寄せれば、 あるいは、 稟子は応えてくれるだろうか……? …………そこまで考えて、 やめた。 この気持ちは、きっと一時のもの。 たくさんの時が流れれば、 自然としぼんで消えてしまうような、 儚いもの、だから……。 稟子は、最後に、こう締めくくった。 「今朝、アンタに怒鳴られて目が覚めた。 ………わたし、 もう一度、頑張ってみるよ」 そう言って笑った彼女の顔は、 今まで見せた、どんな表情よりも、 眩しかった−−−−。 . 前へ |次へ |
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