《MUMEI》 キャッチボール. 俺は、彼女の言葉を繰り返した。 「『ヒュー』?」 すると、彼女はゆっくり振り返る。 相変わらず化粧をしていなかったけれど、それでも、充分、きれいだった。 落ち着き払った態度。悠然とした抑揚。 彼女が醸し出す雰囲気すべてが、俺が知っている異性よりも、ずっとずっと大人びて見えた。 明らかに、俺よりも年上だ。 彼女は落ち着いた声で、「そう」と頷く。 「わたしのお母さんがね、つけた名前なの。好きなイギリス人俳優の名前から取って勝手に……わたしがお願いして飼い始めた犬なのにね」 そう言った彼女の瞳は、俺を通り越して、ずっと遠くを眺めているように感じた。 まるで、遥か昔のことを、懐かしむように。 俺は、そうなんですか、とだけ呟いた。 それがやっとだった。 俺は再び、ヒューの方を見る。ヒューはまだ茂みの中をあさっていた。 彼女も、ヒューの方へ視線を向け、呟いた。 「もう7才になるの。人間でいえば、おじさんとおじいちゃんの間くらいかな。最近は、あまり運動もしなくなって、すっかり隠居暮らしなのよ。あの犬種の寿命も、だいたい、10才くらいだし……でも」 そこで一息ついて、 気になる台詞を呟いた。 …………きっと、わたしより、 長生き、するのでしょうね…………。 俺は、彼女の顔を見つめた。 彼女は相変わらず、ヒューを見つめていた。 その目が、 あの無機質な輝きに、 包まれていた−−−。 二人の間に、沈黙が訪れたとき。 今まで茂みをあさっていたヒューが、突然、こちらに向かって駆け寄って来た。 その口には、《なにか》がくわえられている。 ヒューはまっすぐ彼女のところへやって来て、得意げにその《なにか》を見せ付けてきた。 彼女がヒューの頭を撫でながら、口にくわえているものを、受け取る。 そして、呟いた。 「ボール?」 彼女の手にあるもの。 それは、練習用の野球ボールだった。 おそらくは近所の子供が忘れて帰ったのだろう。 それを、ヒューは見つけてきたのだった。 . 前へ |次へ |
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