《MUMEI》
ひがみ
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矢代さんは微笑んで続けた。


「なにか困ったことあったら、レジにある内線で連絡してくださいね。すぐに駆け付けるようにするから」


内線番号を書いたメモ紙を手渡しながら「それじゃ、よろしくね」と言い残し、彼女は颯爽とプロモーションスペースから立ち去った。

姿勢の良い、その後ろ姿を眺めていると、久美子がぼやいた。


「なんか、カッコイイよね、矢代さんて。働くオンナって感じで。サブチーフなのに、サバサバしてて話し易いし、イヤミじゃないし、しかも美人」


「憧れちゃ〜う!」との久美子のコメントに、わたしも頷く。

矢代さんは新卒でこの香水会社へ入社して2年半で異例の出世を遂げ、今やサブチーフとしてバリバリ働いているのだと、他のスタッフから聞いた。チーフ昇格まであと間近だということも。


そんな話を聞くと、勝手に比べてしまう。


今の、堕落した自分と。


仕事に嫌気がさして、家族や会社の人間が引き止めるのも聞かずに、とっとと退職し、派遣の仕事をダラダラとこなす毎日。

−−−『人生に、《もしも》という言葉は存在しない』と、よく言うけれど、

もしも、会社を辞めていなかったら、みんなの声に耳を傾けて、頑張って仕事を続けていたら、

わたしは、今、どうしていただろうか。

今の矢代さんみたいに、役職を貰って、バリバリ仕事をしていただろうか。


そんなどうでもいいことを考えては、惨めな気持ちに沈んでいく………。


わたしは中央のカウンターの上に置いてあるムエットを数枚手に取り、それから逆の手で『ザ・ビート』のテスターを持ち上げると、ムエットに向けて、香水を吹き掛けた。

一瞬で、甘く爽やかな、スパイスの香りに包まれる。

数秒、ムエットを振り、自分の鼻先にそれを近づけた。
香水特有の、ツンとしたアルコール臭が消えたのを確認してから、わたしは通路に向き直る。

開店直後ということもあり、閑散としていたが、それでもお客さんが次から次へと通路を行き交っていた。

その群集を眺めながら、わたしは、さてと……と、呟いた。


「お仕事、始めますか」


そのとき、近くの化粧品カウンターの販売員が眩しいくらいの笑顔を浮かべて、いらっしゃいませ!!と元気よく挨拶する声が聞こえた。



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