《MUMEI》

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彼はわたしから目を逸らすと、腕時計を見遣り、「待たせて悪い」とさっぱりと詫びたあとで、言った。


「あまり新宿、詳しくないんだけど、1軒だけ知ってる店があるから、そこに行こうか」


ひとりでまくし立てて、颯爽と歩き出す。わたしは、その背中を必死に追いかける。置いて行かれないように。見失わないように。彼は人混みの中を、スイスイと器用に進んでいく。風のように、軽やかに。

ダークグレーの背広に包まれた、その広い背中を見つめて、わたしは、目の前にいる彼が、8年前の尚と同じひととは、どうしても思えなかった。





******





8年前。

わたしは高校2年生で、尚は3年生だった。

その日は確か、日曜で、朝から両親が出掛けていて、家にいたのはわたし達だけだった。

そういうわたしも、午後から当時付き合っていた彼氏とデートを控えていて、朝から機嫌が良かった。

デートを心待ちにしていたわたしは、早々と支度を整えて、リビングへ向かった。

そこに、尚がいた。

尚はソファーに腰掛け、雑誌に集中していたので、わたしがやって来たことに、全く気づいていなかった。

そのとき、降って湧いた、悪戯心から、わたしは尚を、驚かせてやろうと思った。

音を立てないように、ソファーへ忍び寄り、本に夢中になっていた彼の隣で立ち止まり、


「なに、読んでるの?」


大きな声で、はっきり、話しかけた。

突然、響いたわたしの声に、尚は本気でびっくりしたらしく、肩をビクッと揺らした。

そうして、ゆっくり振り向く。

わたしと尚の、視線が、ぶつかる。

烈しい、強さを秘めた目つきに、わたしは射竦められた。言葉が、出てこない。

黙ったままでいるわたしに、尚がぽつんと、答えた。


「バイクの雑誌」


冷たく、単語だけで返された。わたしは、彼の手元にある雑誌を覗き込む。ページには、たくさんのバイクの写真が載っていたが、どれも同じように見えた。

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