《MUMEI》 ミス. あのあと、あの席で、一体、どんな会話が繰り広げられたのか、はっきりと覚えていない。 辛うじて、覚えているのは、 あかねさんの、はにかむ顔と、 尚の、冷静な、声。 −−−実は、彼女のご両親には、もう挨拶を済ませてあるんだ。 −−−式はまだ少し先になるけど、そのときは、よろしくな。 −−−親父と母さんには、俺から、話すから、まだ内緒にしておけよ。 そんな感じの、言葉。 有りがちな、『結婚する幸せ』を享受するひとが、口にしそうな、ありきたりで、散々使い古された、台詞。 なにそれ、と思った。 完全に、置いて行かれた、と。 8年前の《あの日》から、わたしは尚のことを、強烈に意識し始めた。 家族ではない、別の感情を以って。 尚の姿を見ると、息が苦しくなった。涙がこぼれそうになった。 目が合うと、心臓が、破裂しそうなくらい、高鳴った。 自分でも、信じられないけれど、 わたしは尚を、異性として、見るようになっていた。 対して、 尚は、といえば、ごく普通だった。 《あの日》のことなど、なにもなかったかのようなフリを、していた。 彼の態度に戸惑いながらも、わたしはやはり、尚から目が、離せなかった。 きっと、《あの日》、 わたしの想いが生まれ、 そして、 尚の想いが 死んだのだ……。 ****** 「ちょっと、なにするのッ!?」 突然、怒鳴られてわたしはハッと我に返った。 わたしの目の前には、見知らぬ中年女性が、物凄い剣幕でわたしを睨みつけていた。 彼女は激しい口調のまま、つづける。 「今、香水が服にかかったわよ!」 香水? わたしは自分の手元を見る。左手には数枚の試香紙が、そして右手にはビートのボトルが握られていた。 そこで思い出す。 いま、わたしは仕事中で、香りのついた試香紙を配るため、紙に香水を吹き掛けていたこと。 そして、この前の尚の結婚報告が頭にこびりついて、ぼんやりしていたので、周りを確認せず、おもむろに香水のスプレーを押していたことを。 おそらくは、その吹き掛けた香水が、目の前の女性にかかってしまったのだ。 . 前へ |次へ |
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