《MUMEI》
バックヤードで
.

矢代さんは、わたしを通路の中程まで連れて来ると急に立ち止まり、振り返った。わたしは顔を強張らせる。

しかし、わたしの予想に反し、その表情は、柔らかかった。

そして、彼女の第一声に、驚く。


「大丈夫だった?」


わたしは一度瞬き、それから眉をひそめた。

矢代さんはわたしの顔を見て笑う。


「結構、難しいかんじのお客様だったから。おっしゃっていた言葉も、厳しかったし、へこんでない?平気?」


わたしは戸惑いながらも、頷いた。絶対に怒られると思っていたから、まさか、矢代さんから、わたしを気遣う言葉を聞くなんて、思ってもみなかった。

矢代さんは、良かった、とホッとしたような顔をした。


「一応、派遣会社に報告はさせてもらうけど、今回は、運が悪かったと思って、気持ちをリセットして、頑張って下さいね」


その台詞を聞いて、涙が出そうになった。わたしは消え入るようなか細い声で、すみませんでした、と呟くと、矢代さんは明るく笑った。


「気にしない、気にしない。わたしなんて、もっとすごいミス、いっぱいしてるのよ」


「でも、ご迷惑かけてしまって……」


「いいの。こういう事態のために、わたしやチーフがいるんだから。後輩を守るのが、わたし達の仕事なの」


だから、元気だしてね、と、矢代さんはまた笑った。

わたしは矢代さんの顔を見た。その透き通るような美しい表情を見て、やっぱり、と思った。

やっぱり、すごいな。

このひとが、どうして、会社から良い評価されるのか、よくわかる。

矢代さんは、一度瞬き、それからさりげなく、呟いた。


「でも、今回のミスは、中川さんらしくないね」


わたしは、え?と聞き返す。矢代さんは穏やかな声でつづけた。


「中川さんは、他の派遣のひとと違って、経験も豊富だし、なによりプロ意識が強いでしょう。だから、なんだか、意外だわ」


そこまで言って、彼女は首を傾げた。


「なにか、あったのかな?」


彼女の問い掛けが、あまりにさりげなかったから、わたしは俯き、つい、正直に、答えた。


「プライベートで、ちょっと、ショックなことがあって……それで、仕事に集中出来なくて」


詳しくは、言わなかった。言えなかった。言っても仕方ないことだし、なにより、尚の結婚について、矢代さんには、直接関係のないことだったから。

.

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫