《MUMEI》

先生の名前は橘一真。

たちばな かずま、と読む。

僕の通う高校で化学を教えている。

先生はかなり背が高い。高いだけじゃなくて、スタイルも抜群だ。

それに顔が良い。とても整った顔立ちは精悍で、16年とちょっとの僕の人生で出会った人の中で、間違いなく1番のイケメンだ。

正直に言うと、僕は橘先生がかなり苦手だった。

だって、ものすごく軽薄そうだったから。

彼の周りには、いつも女生徒が取り巻いていて、賑やかというより、うるさい。

初めて見た時は、彼が教師だなんて信じられなかった。

だから、あの日の出来事は、僕にとってものすごく意外な事だったんだ…。

***********************

その日は、もう5月だというのに、昼過ぎから冷たい雨が降り続けていた。

少し歩いただけで制服のパンツが濡れてしまう程の雨の中、僕は帰り道を駆けていた。

あの子、大丈夫かな…

走りながら頭に浮かぶのは、ここ何日か通学途中の公園で見かける、捨てられた子猫たちの姿だった。

今朝見かけた時には1匹だけ残っていたけど――あの子も、ちゃんと誰かに拾われただろうか?

公園にたどり着いて、段ボールの置かれていた隅の植木を見た僕は、悪い予感が的中したことを知った。

やっぱり…1匹だけ残っている。

全身が黒くて、4つの足先だけが白いその子猫は、段ボールの隅で小さく震えていた。

雨が箱の中にまで浸入している。

僕は急いでバッグの中からジャージを取り出すと、震える子猫を包み込んだ。

ついでに、さしていた傘を、段ボールに雨が吹き込まないように立て掛ける。

自分はみるみるうちにずぶ濡れになっていったけど、僕は全然気にならなかった。

この子、どうしよう…

このままここに置いておけば、あと数日も持たずに死んでしまうに違いない。

家に連れ帰ってやりたい。
やりたいけど…

雨に打たれたまま、どのくらい悩んでいたのか。

周りが薄暗くなってきた事にも気付かす、立ち尽くしていた時だった。

「お前、何やってるんだ?」

突然掛けられた声に、内心びくっとしながら振り向くと、すぐ傍に橘先生が立っていた。

「ずぶ濡れじゃん、傘は?」

言いながら、植木の側に置いてある僕の傘をちらっと見る。

イヤな奴に見つかった…と僕は思わず顔をしかめた。
話したことは一度もないけれど、絶対バカにされそうな気がする。

「別に先生には関係ないでしょう。先生こそこんなところで何してるんですか?」

早く立ち去ってほしい。

冷たい口調で言ったのに、橘先生はまるで聞いてないかのように、段ボールを覗きこんでいた。

「お?猫かあ、ちっさいなあ」

手を差し込んで子猫の頭を撫でている。みゃーと小さく鳴く声が聞こえた。

「あの…」

「お前震えてるな、大丈夫か?」

猫に向かって話しかけている。

「……」
この人、本当に僕の話聞いてない…

その場に取り残されてしまったようで、なんだか居づらくなってくる。

でも、子猫の事を思うと立ち去ることも出来ない。

僕が無言でイライラしていると、橘先生が突然聞いてきた。

「この傘お前の?」

相変わらず、顔は猫に向いたままだ。

「そうですけど」

みゃうみゃう鳴く声が聞こえる。

「自分がずぶ濡れになってまで傘さしてやるなら、いっそ拾ってやれば?」

言われた途端、かっとなった。

なんにも知らないくせに、偉そうに言うな!

思わず怒鳴ってしまいそうになるのをぐっと堪える。

落ち着け、自分。こんな奴でも先生だ…

「そんなの僕の勝手でしょう」

多少、つんけんしてしまうのはしょうがない。

「ふ〜ん…じゃあコイツ俺が連れてくわ」

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