《MUMEI》
失望
昼。
仁美が二階の掃除をしていると、205号室の田中が出てきた。
「こんにちは」仁美はいつものように明るい笑顔で挨拶する。
「こんちは」
田中は色気づいたのか、最近は裸で廊下を歩いたりはしない。着ているシャツやジーパンも洒落ていた。
「大家さん。最近元気ないね」
「え、そんなことないよ」
田中は仁美をじっと見つめた。
「何か困ったことがあったら言って。力になるから」
「ありがとう」
さすがにアパートの住人に相談することはできない。しかし仁美は田中の心づかいが意外であったし、嬉しかった。
「ふう」
夫に黙って住人に相談したことがわかれば、夫は怒るだろう。仁美は考えた。何も裸にされてしまったことまでバカ正直に話さなくてもいい。
夫婦なのだから、妻の悩みは夫の悩みでもあるはず。彼女は話す決心を固めた。
夕飯が済み、夫の真司が酒を飲もうとしたとき、仁美は話を切り出した。
「真司さん」
「ん?」
「実は、相談があるんだけど」
「何だよ」真司は顔をしかめた。
「実はね。202号室の星童俊介さんなんだけど」
「ああ、若い子が入ったっていう」
「そう。何ていうか、あたし、気に入られちゃったみたいで」
「何?」真司は怖い顔で仁美を睨んだ。
「つまり、ストーカーかもしれない」
真司は酒を飲もうとした手を膝へ置き、仁美を見すえた。
「おまえに隙があったんじゃないのか?」
「え?」
「必要以上に優しくしたり、親しくしたり、笑顔を振りまいたってことはないか?」
仁美は耳を疑った。わが夫がここまでストーカーを理解していないとは。しかし全く図星なので、仁美も怒れない。
「正常な男性は、どんなに親しげにしても勘違いなんかしません。ストーカーは元々ストーカーなの」
「だから心当たりはないかと聞いているんだ」
「あたしが悪いの?」仁美は大きい声を出した。
「悪いなんて言ってない」
「じゃあ、何で刑事みたいに詰問するの?」
「もういい。この話はやめよう」
「え?」
やめるって、解決していないし、結論も出ていない。しかし真司は寝室へ行ってしまった。
仕事で疲れているのはわかる。出張は旅行ではない。大事な商談を成立させるか否かの一大勝負。出張前にほかのことは考えたくないのだろう。
仁美はこれ以上相談する気にはなれなかった。でも妻のピンチは心配ではないのか。
「はあ…」
ため息を吐いたが、夫が言った通り自分が悪いのだ。仁美はだれも責められないことに気づいた。
夫に、バスタオル一枚でドアを開けたことを知られたら殴られるだろう。
仁美はテーブルの上のものを片付けながら思った。やはり自分一人で解決するしかない。

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