《MUMEI》
痛みを知らない人間
仁美は、買い物の帰りに、アパートの近くで阿部に会った。何となく待ち伏せていた感じだ。
「あれ、こんばんは」仁美は明るい笑顔で挨拶した。
「おばんでやんす」
阿部は笑顔だが様子がおかしい。いつもおかしいが、きょうは明らかにおかしい。
「ストーカー?」仁美が笑う。
「ストーカーは僕じゃないでしょ」
「え?」
仁美は笑顔を消した。胸騒ぎがする。阿部は真剣な面持ちで迫った。
「ダンナに言えないことなら僕に言いなさい。助けてあげるから」
言葉は嬉しいが今いち頼りない。
「別に、何もないわ」
「何で嘘つくの?」
「嘘なんかついてません」
「困ったときはお互い様。僕を頼りなさい」阿部は自分の心臓を拳で叩くと、そのまま両拳で胸を叩いた。「ウホウホウホ…ごほ、げぼ、ぐるじ、しむ…」
ギャグか本当にむせたか判別は難しいが、笑える心境ではない。
仁美は阿部を置いて先に行こうとした。
「仁美さん」
「名前で呼ばないでって言ったはずよ」仁美が睨む。
「哲朗さんて呼んでるくせに」
嫉妬か。仁美は反論できない。
「あの、その、つまり…」
「何ですか?」
阿部はポケットからプリントを出した。
「これ、仁美さんだよね?」
プリントを見て仁美は気を失いそうになった。全裸で手足を縛られている自分。目を黒く塗り潰しているが、知っている人が見ればひと目でわかる。
仁美は阿部に背を向けた。
「星童だろ。警察に突き出そう。協力するから」
仁美は黙っている。
「仁美さん」
阿部が顔を覗こうとすると、仁美は振り向き、阿部を見た。両目を真っ赤に腫らし、口を真一文字にしている。
「仁美さん」
「主人には言わないで」
「なぜ?」
「そんな写真見たら、離婚させられちゃう」
阿部は驚くと、激怒した。
「そんな薄情なダンナなら別れちまえよ!」
「え?」
「いや、そうじゃなくて、つまり、その…」
阿部は困りながら一回転すると、仁美をシリアスな顔で見つめた。
「愛する妻のピンチなのに、ダンナが守らないでだれが守るの」
「優しいんですね」仁美は力なく笑った。
「優しいよ」
「阿部さんと結婚する人は、幸せですね」
「あまり嬉しくないセリフだったりして」
阿部は思い出したようにプリントを仁美に渡した。
「あ、これ、見てないから、大丈夫」
仁美は赤面しながら受け取った。
「ありがとうございます。阿部さん」
プリントは戸の隙間からでも入れたのか。ひどいことをする。
仁美は部屋に戻ると、ハサミでシュレッターのようにプリントを切り刻んだ。
痛みを知らない世代。いや年齢は関係ない。
若者だけではない。現代人は人の痛みを知らないから、死ぬまで殴るし、やって良いことと悪いことの区別ができない。
仁美は激しく沈んだ。

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫