《MUMEI》
ヒーローの座
阿部の目はうつろだ。仁美は気持ちをしっかり持った。独身時代なら観念してしまったかもしれない。しかし主婦にそれは許されない。
「阿部さん、やめてくれたら何でも言うこと聞くから」
ダメだ。愛撫されているのだ。「言うこと聞く」は通用しないだろう。
阿部は燃えていた。この仁美の慌てぶりは、かなり感じているのだ。どうせ叶わぬ恋ならば、屈服させてしまおうと、邪なことが脳裏に浮かんだ。
「阿部さん。阿部さん…あああ!」
仁美は慌てふためいた。激しく腰をくねらせてのけぞる。
「やめてやめて、一生のお願い、一旦許してえ!」
仁美は泣き顔だ。急に来てしまった。
(耐えられないよ、どうしよう!)
必死に暴れたが、手足を拘束されているから、どうすることもできない。
(ダメだ、どうにもならない)
心で否定しても、体が反応してしまう。でも諦めたくなかった。
仁美は両目をきつく閉じて歯を食いしばる。
「くううう…」
「NO!」
阿部の叫び声。見ると、首根っこを掴まれて足が浮いている。
「田中さん…」仁美は目を見開いた。
「テメー、それでも男か?」
「たんま、暴力反対」
田中に殴られたら大怪我してしまう。仁美は叫んだ。
「田中さん殴らないで!」
「しかし」
「あたしが殴るから」
仁美の言葉に納得した田中は、阿部を放した。
「そこを動くな。逃げたら泣かすぞ」
「泣かすって、小学生じゃないんだから」
ブツブツ言う阿部を無視して、田中は仁美の手足をほどいた。
「ありがとう田中さん。助かったわ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
田中に手を取られて作業台を降りた仁美は、怖い顔で阿部に迫った。
「あ、その、つまり、魔が差したと申しますか、何ちゅうか、本中華」
阿部は土下座した。
「すいません!」
仁美は腕組みすると、上から言った。
「最後の最後にヒーローの座を奪われたわね」
「その、つまり」
仁美は素早くしゃがんだ。
「顔を上げなさい」
「はい」
「バカ」
顔面パンチが軽く入った。
「あたっ」
仁美は俊介にも歩み寄る。縛られて動けないが、田中が横にピッタリついてガードした。
「俊介君」
俊介は顔を上げずに聞いていた。
「悪いけど、警察呼ぶからね」
「……」
田中が優しく聞く。
「大家さん、服は?」
「下よ」
「護衛します」
「田中さん。ありがとう。本当にありがとう」
仁美は腕を田中の首に回して体を預けた。田中は遠慮していたが、優しく仁美の華奢な体を抱きしめた。
(あの役は本来僕がするはずだった…)
阿部は悔しがった。
「男阿部。二生の不覚!」
仁美は田中と一緒に、廊下を歩いていった。

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