《MUMEI》

 「お帰り、愁ちゃん」
重い足取りで帰宅した広瀬を、向日葵に囲まれ穏やかな笑みを浮かべる野衣が出迎えた
一体何をしているかを問うてみれば
「向日葵、少し部屋に飾ろうと思って」
綺麗に咲いたでしょ、と変わらずに笑う野衣
向けられたその笑みにふと罪悪感が芽生える
自分勝手な思い込みで彼女を手放そうとしている自分を
彼女は許してくれるのだろうかと
「……野衣」
名前を呼んでやりながら、広瀬はその細い手首を不意に引く
突然に抱かれた野衣、その弾みで抱えていた向日葵を落としてしまっていた
「愁ちゃん、どしたの?」
様子がおかしい広瀬へ
伏せたままの顔に野衣の手が触れた
顔を上げさせられ、正面から眼が合えば
言わなければならない言の葉が、どうしても出てこなくなってしまう
「……して、くれな」
聞こえない程の小声での野衣への謝罪、そしてキス
触れるだけのソレはすぐに離れ
互いの間に、不自然なまでの距離が開いた
「……野衣。お前、ここから出でけ」
造り過ぎた表情で告げる別離の言葉
瞬間、その意味が理解出来なかった様で野衣が首を傾げて見せる
「……愁ちゃん。今、何て……?」
聞き返してくる彼女へ
広瀬は先程の言葉をもう一度、やはり感情の籠らない声で繰り返した
「……私、愁ちゃんを怒らせるような事、何かした?」
突然のソレに動揺しない筈もなく
うろたえるばかりの野衣へ、だが広瀬は何を返す事もせず
荷造り用に、と部屋に乱雑に置かれている段ボール数箱へと顎をしゃくる
「さっさと自分の荷物片せ。明日には、お前預かってくれる家に連れてくから」
「ど、して……?」
問うてもその訳を語ってはくれない広瀬へ
また同じ事を問えば
「……お前と暮らすのが面倒になった。それだけだ」
返してやったのは本音とは全く逆の建て前で
涙に頬を濡らす野衣の顔が目の前
ソレを見ないようにと野衣へと背を向け、広瀬はそのまま黙りこんでしまった
どれだけ叫んで、呼んでみても振り返る気配のない広瀬へ
野衣はそれ以上呼ぶ事はせず、その内に彼女のしゃくり声が聞こえ始める
耳に聞こえてくるその声が、胸に痛い
「愁ちゃん、ごめんなさい。ごめん、なさい……」
拒絶されてしまう程に広瀬を怒らせてしまったのだと思い込み
扉越しに何度も謝罪の言葉を呟いていく
悲痛なソレに、それ以上聞いていられなくなった広瀬は耳を塞ぎ
暫くして、漸くその声は止んだ
その様子を伺えば、のろのろと荷造りを始めているのが見える
「……愁ちゃん。段ボール、足りない」
荷が入りきらない、との細々しい訴えに
だが広瀬は向いてやる事はやはりせず
入りきらないものは後々に送るから、と端的に会話を終わらせた
そんな途切れ途切れの会話を何度か交わし、荷造りは終了
その段ボールを車へと押しこみ、野衣を助手席へと座らせると車を出す
狭い車内、二人きりの空間
近すぎる距離にあっても、互いに交わす会話は、ない
「……着いた。降りろ」
車はとある家の前で止まり、相も変わらず冷淡な声を向ける
到着した其処は斉藤宅
呼び鈴を鳴らせばすぐに斉藤とその女房が出てきた
「……野衣の事、宜しく頼む」
斉藤へそれだけを耳打つと
野衣へと一瞥だけをくれてやり、広瀬はその場を後に
戸の閉まる音が、この時だけはやけに耳に響いて
野衣がその場へと座り込み、泣く事を始めてしまう
広瀬と離れて暮らすなど考えたこともなかった
あの家での二人の時間はこの先も続いて行くものだ、と
ソレが何故、こんな事になってしまったのか
どれだけ考えても、解る事はなかった
「愁ちゃ……」
声を抑えながら、涙に肩を揺らす野衣
その様子を見ていた斉藤の女房が
見るに見兼ねてその細い肩を抱いていた
「……少し、休もうか。色々あって、疲れちゃったでしょ」
その柔らかな声に促され、野衣は用意されていたらしい部屋へ
野衣をソコで休ませてやり、居間へと帰って来た彼女へ
「野衣ちゃん、寝たのか?」
斉藤が様子を伺えば頷いて返してくる
だが俯いたまま、浮かない顔をする彼女・奈菜へ

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