《MUMEI》
夫婦
夕方。
優里が買い物から帰ると、ちょうど隣に住む坂岸冬広と、エレベーターが一緒になった。
「こんばんは」優里は笑顔で挨拶した。
「こんばんは」坂岸冬広は落ち着いた声で返す。
スーツ姿の坂岸冬広。渋い。サラリーマンと聞いているが、長い髪が似合う。
どことなく役者のような雰囲気を持っていると、優里は前から好感を持っていた。
娘が19歳だから40代くらいだろうか。奥さんも明るくて親切な人なので、優里はこの家族が好きだった。
「きょうはお仕事だったんですか?」
「たまにね。日曜日も出ることあるんですよ」
冬広は額に汗が滲む。夏で良かった。まさか夜這いプレイの店に行ってきたとは言えない。いい人と思われているのだ。
「ふう。暑いね」
「ホントですね」
六階に着き、ドアが開く。優里は開のボタンを押した。
「あ、どうも」冬広は会釈すると先に降りた。
二人はそれぞれのドアを開ける。
「それじゃ」
「はい」
冬広は、優里の輝くような笑顔に感動しながらも、すました顔でわが家に帰った。
「ただいま」
「お帰りなさい!」
愛する妻と愛しき娘が明るく迎えてくれる。一見すると、幸福な家庭だ。
坂岸家は三人暮らし。家事を完璧にこなし、いつも笑顔を絶やさない陽子。冬広は妻に何の不満もなかった。
娘のさゆりも19歳だというのに、懐いてくれる。朝夕の食事も必ずテーブルに着いて、絵に描いたような家族団欒。
父娘二人で出かけることもあり、ほかの同僚からも羨ましがられていた。
こんな平穏な家庭を崩壊させたら罰をもらうと、冬広は常に自問自答していた。
「あなた、おかわりは?」
「ああ…」
この優しい妻を裏切ることなどできない。かわいい娘を泣かせるようなことをしたら、人間失格だ。
胸のモヤモヤの原因はわかっていた。彼はすでに心の浮気をしていた。
想像の中だけの不倫は、バレなければ罪はない。しかし罪悪感はある。
心の浮気。その相手は、隣に住む音中優里だ。
冬広は食事を終えると、自分の部屋にこもった。愛しの優里の顔が浮かぶ。
(綺麗だ。かわいい)
いつも明るい笑顔を向けてくれて、話しかけてもくれる。どんなに嬉しいかわからない。
本気で惚れてしまった。心の浮気ではなく心の本気だ。罪は重い。
冬広は男のさがの悲しさを思った。自分も妻と一緒に年齢を重ねていくのに、なぜ若いほうへ目が行ってしまうのか。
妻はまだ43歳。全然若い。しかし、ときめかない。健康的過ぎるのだ。
こんな考え方自体がすでに人間失格だと思い、冬広は目を閉じて頭を振った。
優里の美しい顔が浮かぶ。服を脱がして生まれたままの姿にする。ベッドに押し倒して、手足を縛り、全身くまなく愛撫して困らせる。
そうなのだ。彼はSだった。妻にときめかなくなってから、マニアックな店でモヤモヤを晴らしていた。
妻はアブノーマルプレイを拒否した。
優里は私服しか見たことがないからこそ、想像しただけで燃えてしまう。そういうものだ。
女神のような女性も、一夜をともにすれば、普通の人間だと感じるだろう。
(しかし…)
冬広は笑った。優里は知的で理性も高い素晴らしい女性。SMプレイなど拒否するに決まっているだろうと思った。
その前に異性としての男性の数に入っているかも怪しいものだ。
好きな娘に嫌われていないだけ幸せではないか。
自己嫌悪と、自分はまだまだ若いという自画自賛が交錯する。
だが妻がいるのだ。結婚したら妻一筋に生きる。それが夫婦だ。その契りを守れない者は、結婚をする資格はない。
理屈は百も承知。ところが、だれもが正しいと思う理屈を、一瞬で破壊する欲望という怪物がいる。
胸の中に、心の中にいるのだ。これをどうするのか。
冬広は猛省したはずが、気づいてみたら裸の優里を空想で抱いていた。
「重症か?」
冬広は、独り、苦笑した。

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