《MUMEI》
逡巡
冬広はゆっくりベッドに腰かけると、呆然とした表情でドアのほうを向いた。
「助けてください冬広さん。あなただけが頼りです」
「……」
「ほどいてください。お礼はちゃんとしますから」
冬広は黙って俯いた。まず妻子の顔が浮かんだ。愛しの優里を助けてあげたいが、あまりにも危険だ。失敗すれば命はないだろう。
「冬広さん」
冬広は、優里を見た。
「逃げるって言っても、見張りがいるだろ」
「見張りはいません」
「え?」
「さっき下までお客さんとエレベーターで下りたのに、だれも出て来ませんでした」
冬広はそれでも慎重になった。
優里はムッとすると、力を抜いた。
「坂岸さん。今の話は忘れてください」
「え?」
「遊びに来たんでしょ。どうぞ、あたしの体を好きにしてください」
投げやりな言い方をされ、冬広は心が痛んだ。
「優里チャン。さっき言ってた拷問て?」
「ピストルをあそこに突きつけられて。そんなことされたら、言うこと聞いちゃいますよ。悔しくて悔しくて、たまらない」
冬広は迷った。人生最大の逡巡だ。
「どうぞ。好きにしてください」
「優里チャン。人を見くびる言い方は良くないよ」
「え?」
冬広はベルトを外した。
「冬広さん」
「助けてあげる」
優里は目を丸くした。素早くバスタオルを体に巻くと、冬広の腕にすがった。
「ありがとうございます。失礼な態度取ってごめんなさい」
「いいよいいよ、大丈夫」
冬広は優しく抱きしめると、聞いた。
「優里チャン服は?」
「服も手荷物も取られたままです」
「そうか」
冬広は立ち上がると、タンスを開けた。
「裸じゃ逃げられないな」
慣れている。よほどの常連らしい。彼はコスチュームを端から見ていった。
セーラー服、レースクイーン、水着、パジャマ、浴衣、男のロマン・ワイシャツ上だけ、くの一、ナース服。
「これだ!」
冬広はナース服を優里に渡した。
「これを着なさい」
「はい」
優里はナース服を胸に抱いたまま、つぶらな瞳で冬広を見つめた。
「あっ失礼」
冬広は気づいて後ろを向く。優里は素早くバスタオルを取り、ナース服を着た。
「僕が最初に出るから」
「はい」
緊張の一瞬。冬広は静かにドアを開けて廊下の様子を見ると、優里に手招きした。
二人は階段を使って下りる。1階まで来ると、冬広だけマンションの玄関口に出て様子を確かめ、優里を呼んだ。
助かったか。
二人がマンションから出ようとしたとき、後ろから鋭い声が聞こえた。
「どちらへ行かれます?」
血の気が引く。冬広と優里はゆっくり後ろを振り向いた。伊刈が立っている。
さらに屈強な男たちが数人出てきて二人を囲んだ。
「優里。そんなにロシアンルーレットがしたかったか?」
優里は唇を結ぶと、冬広の腕にすがった。
「優里チャン。大丈夫。大丈夫だから」

二人は事務所に連れて行かれた。ソファにかしこまってすわり、俯いていた。
冬広は真顔。優里は震えていた。
伊刈を始め数人の男たちは立っている。組長の舟岩は涼しい顔をしながらタバコを加えていた。
白髪が目立つ短い頭髪。軽装だから一見すると普通の壮年にも見えるが、眼鏡の奥の目は、すわっていた。
灰皿にタバコを置いた舟岩はじっと冬広を見ると、いきなり聞いた。
「惚れたか?」
冬広は遠慮がちに顔を上げた。
「はい」
「はいってねえ」舟岩は苦笑する。「あんた、女房子どもいるんだろ?」
冬広は黙った。優里も陽子やさゆりの顔が浮かび、申し訳ない気持ちで胸が痛んだ。
「確かにイイ女だが、あんたもバカだねえ。人生を棒にふるようなことして」
「……」
舟岩はタバコをふかすと、すぐに灰皿でもみ消した。
「冥土の土産に、私に伝授してくれないか。寸止めテクを。ハッハッハッ。評判いいよ、うまいって。女の子が悲しむね」
やはり無事では済まない雲行きだ。優里は両拳を強く握った。

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