《MUMEI》
愛娘
冬広は、わが家のドアを開けた。
「ただいま」
「お帰りなさい!」
いつも変わらない、妻と娘の明るい声。冬広の胸は痛んだ。
「遅かったじゃない」陽子は冷蔵庫からビールを出した。
「部下がミスしてね」
冬広はテーブルに着き、ため息を吐く。
「お注ぎしましょうか、お父様」
さゆりが意味ありげな笑顔でビール瓶を持った。冬広はグラスを傾けながら笑う。
「さゆり。何か願いごとでもあるのか?」
「バレた?」
「高いものはダメだぞ」
陽子とさゆりは食事が済んだのに、お菓子を食べながらテーブルに着いてくれる。こんな優しい妻と娘を、裏切れるわけがない。
いや、すでに妻は裏切ったか…。
「あなた、ミスって?」
「詳しく話してもわかんないよ。まあ、二人して社長に土下座だよ」
「まあ」
冬広は魚をつまみ、ごはんを食らう。
「何とか許してくれた」
「部下って女子社員?」さゆりがニコニコしながら聞く。
冬広は一瞬顔を曇らせて娘を見るが、すぐに笑顔になった。
「いや、男だけど」
「何だ。体張って助けたから、てっきり女子社員かと思った」
「お父さんはそんな人じゃないわよ。男だろうと女だろうと、後輩は関係なく守るわよ。ねえ?」
「ああ、もちろんだ」
冬広は額に汗が光る。思わずビールを一気に飲んだ。
またさゆりが注いでくれる。
「サンキュー」
さゆりの目。何か言いたげだ。満面笑顔で覗き込むような視線が怖い。
食事を済ませ、冬広は自分の部屋に入った。ノック。さゆりだろうか。冬広はひと呼吸置いてから言った。
「どうぞ」
さゆりが入ってきた。イスにすわると、弾むような声で言う。
「お父さん。ノートパソコン買って」
「いくらするんだ?」
「19800円」
「そんな値段で買えるか?」
「中古でいいのよ。インターネットが見れればいいんだから。でも周辺機器が高いのよね。だから全部で5万円ちょうだい」
「そんな大金出せないよ。自分でバイトして買いなさい」
さゆりは俯きながら言った。
「そっか。お父さんはデート代にお金かかるから無理か」
冬広はドキッとした。
「デート?」
「食事したり、ホテル入ったり」
白い歯を見せるさゆり。冬広は恐る恐る聞いた。
「何でそんなこと言うんだ?」
「お父さん。優里さんのこと好きなの?」
冬広は心臓が止まるかと思った。
「何言ってるんだ?」
「あたし、見ちゃったんだよね」
冬広は目をそらした。
(何を見たのだろうか。どこを見たのだろうか)
「さゆり。優里さんな。悩みがあって、その、相談に乗ってあげてたんだ」
「何でお父さんが?」
「偶然、そうなった」
「どんな悩み?」
「秘密は厳守だよ」
「じゃあ、やましいことはないわけね?」
「あるわけないだろ?」冬広は力なく笑った。
「でも、どんな悩みか言えないのは怪しいな」
「詐欺だ」
「え?」
「彼女、詐欺に騙されていて、お父さんが助けた。おまえには嘘はつけないからここまで話すんだぞ」
さゆりは立ち上がった。
「じゃあ、お母さんにも言うね」
「待ちなさい」
ドアを開けようとしたさゆりが振り向く。
「ん?」
「優里さん。だれにも言わないでって言ってたから」
「家族で隠しごとは良くないよ」
「待ちなさいさゆり」
さゆりは開けたドアを閉めた。
「何?」
「5万円で足りるのか?」
さゆりは笑顔がこぼれた。
「え、買ってくれるの?」
「ああ」
「やったあ!」
冬広は引きつった笑顔で言う。
「お母さんには内緒だぞ」
「パソコン?」
「違うよ」
「わかってるって。でもお父さん。相談に乗るのはいいけど、優里さん美人だから。浮気しちゃダメだよ」
「ハハハ。あるわけないじゃないか、そんなこと」
さゆりはニコニコしながら部屋を出ていった。
「ふう」
悪いことは、できないものだ。冬広は愛する娘との約束だけは、破れないと思った。

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