《MUMEI》 夢のひととき簡単な自己紹介をしたあと、智文と夏希は、ワイングラスを合わせた。夏希は改めて頭を下げた。 「先ほどは本当にありがとうございました。助かりました」 「いやいや。でもまさか夏希チャンとは思わなかったから、びっくりしたよ」 夏希はワインをひと口飲む。智文は、最初に言ってしまった。 「夏希チャン。今凄く緊張してて、挙動不審に映るかもしれないけど、変に思っちゃダメだよ」 「思うわけないじゃないですか。女は男性以上に恥をかきたくないっていう思いが強いから。だから、浴衣貸してくれたときは、本当にいい人だと思いました」 「ごめん。すぐに気づかなくて」 「違うんですよ。フロントが来たときにバスタオル一枚じゃ、変に思われるでしょ」 「そっか…」 「危ない男だったら、あたしのあのカッコ見て、何するかわからないと思ったから、本当に怖かった。だからあんなに優しく助けてくれて、本物の男だと思いました」 智文は心底感激した。どうやらお世辞ではなさそうだ。 親しげな会話。夢の中にいるようだ。智文は気合いを入れた。 「夏希チャンって、演技力あるよね」 「ありがとうございます」 宝石の瞳で見つめられただけで、KO寸前に追い込まれる。 「アクションも凄いよね」 「誉めてくれて嬉しいです」夏希は白い歯を見せた。 「でも握手会とかは行ったことない。大勢の中の一人って、イヤなんだ」 夏希は真剣な表情で智文の話を聞いた。 「いつでも1対1でいたいのがファン心理だよ」 「肝に銘じます」 「銘じなくていいよ」 二人は笑った。 「わかりますよ。あたしだって、ついこの前まで無名の一般市民でしたから」 夏希は、きさくに話した。 「司さんは、お仕事は何をされているんですか?」 「大した仕事ではないよ」 「司さん…。智文さんのほうがいいですか?」 名前を呼ばれてドキッとした。 「名前のほうが、いいかな」 ここでニタニタしてはマイナスと思い、智文はワインを飲んだ。 「智文さんは、サラリーマン?」 「いいじゃん何でも。これがデザイナーとか医者だったら、聞かれる前から答えてるけどね。ハハハ」 乾いた笑い。しかし夏希は笑わない。 「あたしが職業で人を見ると思います?」 「まさかまさか」智文は慌てた。「倉庫でコンピューターの部品管理。だれにでもできる仕事だよ」 倉庫と聞いて、夏希は身を乗り出した。 「倉庫かあ。派遣バイトとか使います?」 「詳しいね。何人か来てるよ。でも派遣って…」 「派遣の人には優しく接してあげてくださいね」 「え?」智文は夏希を見つめた。 「あたし、女優やる前は派遣バイトだったんです」 「そうだったんだ」 「派遣ってだけで蔑んだ目で見る人いたけど、人間やめますかの二歩手前ですよね」 「蔑むのは良くないよね」 智文は引きつった笑顔。ギリギリセーフだ。危うく派遣バイトを悪く言うところだった。 (天は、我を見放してなかった…) 「わかったよ。派遣バイト。大切にするよ」 「派遣がいたら、あたしだと思って、助けてあげてください」 話が盛り上がった。それだけでなく、夏希の優しい一面を知れて、智文は感動した。 「智文さん。もう少し話していたいんだけど…」 「いや、いいよ。君は忙しいんだから。行こう」 二人は部屋に戻った。お互いのドアの前で顔を見合わせる。 「ご馳走さま」 「お休みなさい」 「おやすみ。夏希チャン」 「あ、お休みなさい、智文さん」 二人は恋人同士のように笑顔で見つめ合った。 前へ |次へ |
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