《MUMEI》

「峯君が濡れ鼠でやって来たのには仰天したよ。」

先生は峯さんに御自分の御召し物を宛てがって下さった。


「川で足を滑らせたのです。」

滑らせたのはぼくの仕業だ。


「間抜けだな、其の様を見たかった。私が滑稽本として発表会すれば良かったかな。」


「先生は多才でいらっしゃいますからね。」


「おや、止めないのか。」


「ぼくはただ先生の横に居るだけですよ。」


「……そうか。」


「ぼくは先生のお傍に居ますよ。」

安心して欲しくて云い直してしまう。


「其の謂い回しが好ましいな、傍らに居た方が角度が違って面白いじゃあないか。」

そうやって悪戯っぽく咥う先生には敵わない。


「先生……お散歩しませんか。」

祭の終わった夜に、先生と二人で歩きたい。


「丑三つ時の百鬼夜行だ。」

流石、作家であられる先生だ。


「此処だけの話、峯君の体臭はいたたまれない時が或るもの、あれくらい洗ってやらねば落ちまいよ。」

にやり、と笑顔を交わした。
ぼくの肩は軽く、峯さんに憑いていた貞二さんと共にようやく一部の憑き物が落ちた。
多分、先生は気付いていらっしゃったのだろうと思う。


「夜はちゃんと居るように……。」

耳元で囁く先生のお戲れにぼくは緊張して汗ばんだ。

確かにぼくは先生を避けているふしは或った、賎しい血が夜に先生を誑かすのが堪えられなかったからだ。

三次さんにわざわざ頼んで先生の部屋に行かないようにしていた時期も或った。
そのせいで奥方に御迷惑をおかけした。


「こうして、新月の晩に散歩道へ、まじないをかけるんです。」

ぼくは棒を引きながら歩く。

行く道を照らす導べである、野犬が哭いていた。
護身用にもなるだろう。

先生は時折、気分で詩を呟いたり、鼻唄を上機嫌に歌った。
心地好さげに時々月を眺めては目を細める先生の鼻唄は、特別綺麗な旋律だった。


「綺麗ですね。」

先生の横顔を眺めていると、つい溜息と共に賛美が漏れた。


「嗚呼、月がね。」

先生は口の端を上げて、嗤った。

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