《MUMEI》
ワイングラス
「あたし、智文さんが馴れ馴れしいタイプだったら、絶対部屋に入れなかった」
ほんのり顔を赤くした夏希の美しい表情。智文は見とれながら話を聞いた。
「智文さん、優しいから好き。落ち着いて会話したり、お酒を飲んだりしたいじゃないですか」
今、好きと。聞き間違いに決まっている。いや、人間として好きということだろう。智文は動揺した。
「正直な人は信用できます」
「正直?」
「サイン会の話が心に引っかかってて」
「ああ、あれは気にしないで」
智文は頭をかいて笑った。夏希は上品にワインを飲む。智文も慎重に飲んだ。大事なデートで酒が器官に入り、すべてを壊した過去を思い出したからだ。
「あたし、芸能界には染まりたくないし、感覚が麻痺しないように気をつけてたんだけど、サイン会の話は、胸が痛かった」
「そんなそんな」智文はひたすら照れ笑い。
「自分では一人ひとりと丁寧に握手して、言葉交わして、凄いファンサービスをしてるつもりだったけど、ファンの本音はもっと違うもんね」
「じゃあ、オレは、世界一の幸せ者かな?」
「あたし、智文さんのこと、もっと知りたいし、友達から始めるっていうのはダメですか?」
智文は目を見開いた。考えられない展開だ。
「夏希チャン。死ぬほど嬉しいよ。君の友達になれるなんて、夢のまた夢だよ」
「じゃあ、今後ともよろしくです」
夏希が照れながらワインを飲みほした。智文は思った。これはもう、魔法をかけられたとしか、説明のしようがない。
普通のサラリーマンの智文にとって、女優は雲上人。別世界の人間だ。しかし夏希はメジャーデビューしてから間がないため、智文の友人になることは、別段特別なことではないのだ。
「夏希チャン。また会えるよね?」
「智文さんてロマンチストですね」
「ロマンチストは嫌い?」
「違うよ。あたしもロマンチストだから」
「そっか。気が合うね」
ずっとこうしていたかった。しかし夏希はスーパーアイドル。売れっ子女優だ。芸能人と付き合うなら、仕事への理解がないと無理。
「テレビ見てると、ジェラシー湧きそう」智文が笑う。
「ダメよ。仕事だから。メールで、何手繋いでんだあ、なんて来たら怖いよ」
「キス以外は我慢するよ」
「キスはホントにしてないから大丈夫」
「最近の女優ってするじゃん」
「あたしはしないから」
智文の胸はロマンで溢れた。
「役に成りきるために、相手役の男優に本気で恋するって聞いたけど」
「役に成りきるなら、そういう感情に持っていくよ」
「マジ?」智文の顔が曇る。
「ベッドシーンは全裸だし」
「嘘!」
「ガチだもん」
「さっきキスしないって?」
「質問しすぎ!」
夏希に釘を刺されて目が覚めた。智文は自分の心にブレーキをかけると深呼吸。
「そろそろ、あれかな。脚本読んだり、いろいろあるんでしょ?」
「うん」
夏希は頷いたが、ワインを智文のグラスに注いだ。
「え?」
「もう一杯飲むくらいは大丈夫」
なんという嬉しいことを。智文は心底感動した。
「ワインが好きになりそう」
「面白い」夏希は笑うと、いきなり聞いた。「美果チャンは、彼女じゃないよね?」
「違うよ」
「わかった。もう聞かないね」
智文の気持ちは引き締まった。片思いならば、自分が諦めたら即終われる。
しかし、相手に気持ちがある場合の恋愛は、責任が伴う。
いい加減な気持ちは許されない。
「夏希チャン。優しいから大好きだよ」
「何言ってんの」夏希は照れ笑いで交わした。
二人のワイングラスが眩しく光る。

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