《MUMEI》
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夏希は智文のマンションを出ると、一人静かに住宅街を歩いた。
屋台が見える。ショックでやけになっていることもあり、大胆にも中に入った。
夜の屋台には不似合いな若い女性。しかも一人。店主と先客の二人組の男は目を見張った。
「いらっしゃい」
夏希は何食わぬ顔ですわると、注文した。
「日本酒をください。あと、おでんを。テキトーにっていうのはダメですか?」
店主は50歳くらい。短い髪の落ち着いた雰囲気を醸し出す壮年だ。
「じゃあ、おいしいおでんを揃えましょう」
店主が笑う。隣の二人組は30代くらいのサラリーマン風。一人が気づき、もう一人の肩をパンパン叩いた。
「何だよ…あああ!」
夏希は出された日本酒をグイグイ飲んだ。
「あの、もしかして、冨田夏希さんですか?」
夏希はやや口もとに笑みを浮かべる。
「はい」
「うお!」
「あれ、撮影?」男は屋台の外を見る。
「休みです。撮影じゃないですよ」
「プライベートかあ。奇遇だなあ。サインもらえますか?」
「センスねえ」店主が囁いた。
「何がセンスないんだよ」
「芸能人見たらすぐサインせがむなんて。それより普通に接するほうが、男のセンスってもんでしょう」
「なーっ。どうせ俺たちがいなくなった瞬間に握手してくださいって言うんだろ?」
「アハハ」
夏希が笑ったので、二人組も危ない笑顔だ。
「いやあ。テレビよりかわいいよ」
「はい、お待ち」
おでんの盛り合わせが出てきた。
「美味しそう」
「かわゆい。夏希チャン。乾杯してもいい?」
「あ、はい」
「嫌がってるじゃないですか」
「うるさいよマスターは…乾杯!」
ビールと日本酒で乾杯した。
夏希はおでんをパクパク食べて日本酒を飲んだ。
「美味しい」
「ありがとうございます」
二人組はひそひそ話をすると、急に言った。
「お勘定」
二人が立ち上がっても何も言わない夏希。
「じゃあ夏希チャン、頑張ってね」
「あ、どうも」
二人は屋台を出た。少し間を置いてから、店主がさりげなく語る。
「君みたいな若い娘が、夜の一人歩きは感心しないな」
夏希は真顔で店主を見た。
「帰りはタクシーで帰りなさい。あの二人組だってどこかで待ち伏せしてるかもしれない」
夏希はおでんを食べると、日本酒を飲みほした。
「あたしだって、たまには一人で飲みたくなりますよ」
「ウチの娘が君の大ファンでね」
「え?」
「部屋中、君の写真だらけだよ。ポスターからカレンダーから」
「娘さんはおいくつですか?」
「中2だよ」
「嬉しいですね」夏希は本気で言った。
「世の中、バカな男もいるから。君が一人と知ったら、おかしな気を起こす狼は、ウヨウヨ歩いてるよ。自覚しなきゃ」
夏希は俯いた。
「芸能人にプライベートはないと?」
「そうだよ」キッパリ言った。
「え?」
「さっきみたいに、君が冨田夏希と知ったら、大の男がああやって大騒ぎするんだよ。街歩いてみな。熱烈ファンがいたら、それこそギャーだよ」
「……」
「一般人が一生のうち一度も味わえない声援、喝采が日常になる。その代わり、プライベートは制限される」
夏希は唇を結んだまま、店主の顔を見て話を聞いた。
「黄色い声援は浴びたい。プライベートも満喫したい。それはちょっと、贅沢ってもんだよ」
「贅沢ですか?」
「君が今いる地位に立てるなら、すべてを捨てても構わない。そう思ってる女の子が、何万人いると思う?」
夏希はハッとして胸が熱くなった。
「前に、同じことをある監督から言われたことがあります」
「ほう」
「ありがとうございます」
夏希が丁寧に頭を下げたので、店主は頭をかいた。
「年取るとどうも説教じみていけねえ」
「そんなことないです。凄く嬉しかったです。本音で語ってくれて」
「いやいや」店主は照れた。
少し心が晴れた夏希は、屋台を出た。さっきの二人組が遠くから見ていた。
「嘘…」

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