《MUMEI》 一幕慎重に人目を盗み、遮那王はこっそりと鞍馬寺から抜け出した。そして、山を下りて市井へと顔をだす。そうして向かった市井は、賑やかといえば賑やかだが、そこには本来あるべき生き生きとした人々の面影はない。 なぜなら、そこら一帯は平家に仕える者達の警備が厚く、厳重な統制が行われているからである。つまり、気を許しながらの生活なんて出来る環境ではないのだ。仮に平家の陰口を叩いたり、厳しい租税から逃げたりしたら、どれだけの体罰を受けるのか分かったもんじゃない。 遮那王はそんな平家の従者達が取り仕切る中で、堂々と路上を歩いてみせた。すると市人達は、瞬く間に遮那王の存在に気付く。それは、遮那王が真新しい水干と小袴を身に纏い、公然と振る舞っているから「それなりの身分なのだろう」と、つい考えてしまうのが、遮那王に人々の目線を集める理由に違いない。だがそれ以上に、後頭部で枝垂れるように結った髪を揺らし、凛とした端正な顔立ちが、あちこちにいる市人の視線を呼んでいるようにも見える。 過ぎ行く老若男女、全員が全員という訳ではないが、遮那王とすれ違う度に振り返る者が多く見られた。しかし、遮那王はそんな人々の目を気にせず、寧ろ寺から抜け出せた開放感によって、心地好い面持ちであった。 (やっぱり、市は寺なんかよりもずっと居心地が良い。寺にいれば、理円殿に追いかけられて、安心して昼寝も出来やしないからな) 遮那王はそんなことを思い、のんびり歩いていると、右肩を背後から軽く叩かれた。その瞬間、ぴりっとした寒気が背筋を走る。 「もし、そこのお兄さん。ちょっと、宜しいですか?」 その声を聞いて怪訝に振り向くと、そこには烏羽色の艶やかな長髪をした、美しい女性が微笑んでいた。齢は十六、七あたりだろうか。彼女は背中に琵琶を背負い、さっぱりとした朱色の着物姿が素直に調和している。そして、光る玉のような白肌は、誰から見ても目を見張るものがあった。 遮那王は女の眩しいくらいの美貌に一瞬だけ、心を奪われる。しかし、すぐにはっとして意識を取り戻した。遮那王は何度か瞬きをして彼女に向き直る。 「あ、貴方は? 申し訳ないが、私は貴方と面識が無いはずだが……」 それを聞くと、彼女は口元を袖で隠してクスクスと遮那王に笑ってみせる。続けて、それを訝しげな遮那王に「そう不安がらないで下さいな」と白い歯を見せた。だが、遮那王はそう言われると、ますます彼女に対して身構えてしまう。 次へ |
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