《MUMEI》
夜空
「あの、私の家が近くにあるんですけど、来ませんか?」


 まさかの誘いに心臓がドクンと跳ねた。男の性だ。どうしようもない。今まで女性とあまり関わった事がなかったのだから、自分には免疫が無いと言ってもいいだろう。決して事を運ぶ気は無いのだが、自宅へ呼んでくれるという事は少なくとも嫌われているわけではないだろうし、好かれて嫌な気分になる人はいないだろう。

「もう暗いですし、森を戻るのは危険です」

「でも……」


 しかし、裏があるような気がしてならない。久し振りに感じた異性の雰囲気に勘が鈍ってしまいそうだったが、この女の子は何か裏があるだろう。登場の仕方といい、夜の森に一人で居た事といい、一番不可解なのは、どうしてこちらの名前を知っているかだ。わざとひ弱そうな女の子を使い、こちらを油断させようというのだろうか。


「一緒に暮らしている人が居るんですけどね」


 こちらが決断できずに黙ったままで居ると、女の子はさらに言葉を続けてきた。


「医者みたいなもので、私は先生って呼んでるんです。もしかしたら、弟さんを助けられるかもしれません」


 裏がある事は核心へと変わった。こちらの情報はすべて向こうの手の内へ回ってしまっているようだ。しかも、その事を隠そうともせずに交渉へとうつってきた。クズハを助ける代わりに着いて来いというのか。何をされるかもわからない相手の本拠地へ。もしかしたら下僕として一生使われてしまうのかもしれない。それならまだ良いかもしれないが、もしも相手が変わった趣向の持ち主で、暇潰しのために殺されたり、又は、いっそのこと殺してと願ってしまうほど恐ろしい仕打ちも受けるかもしれない。

 しかし、ようく考えてみれば、答えなんて分かりきっているのではないか。クズハはこのままではいなくなってしまう。それが遠いか近いかはまだわからないが、少なくとも、シオンや自分なんかよりは遥かに早いだろう。どちらにしろクズハがいなくなってしまうのだとそれば、この女の子の同居人に賭けてみるのも悪くはないだろう。自分の命なんて安いものだ。それに、こちらの情報がすべて漏れているのだとすれば、あの家の位置だって知られてしまっているのだろうから、結局は逃げられないのだ。それなら、大人しく従った方がシオンやクズハの安全は確保できる。


「わかった」


 自分は頷いて、女の子の意見に同意を示した事を表す。しかし、それには前提があっての話だ。


「そのかわり、兄弟に危害を加えないでくれ」

「当然です」


 女の子は声を張り上げてそう言ってくれた。確かに、この女の子から敵意は感じられない。ただ、怪しい点がいくつもあるというだけ。しかしそれは疑うに値するというもの。だが彼女に従わなければシオンやクズハが危ないのなら、従うしかないだろう。


「では、行きましょう」


 女の子はまた微笑み、こちらの手を取って歩きはじめた。突然の事で抱いていた猫を離してしまったが、茶色猫は華麗に着地を決めて女の子の横を優雅に歩き始めた。

 手の平から伝わる彼女の体温は、こちらよりも僅かに暖かい。その温かさはなぜか安心感を与えてくれ、気が付けば手を引かれるまま、周りを警戒する事も忘れて歩いてしまっていた。

 上を見上げれば、ただ黒いだけの夜空が写るだけだが、ガラでもなく星を探してしまう。昔はたくさん見えたらしいが、今では一生の内に一つでも発見できれば恵まれていると言われる星。どんなものかわからないのだから、見つけても気が付かないかもしれない。こんな真っ暗な空にあり、見つける事ができるのか不思議に思うが、なぜだか今は、諦めずに探してみたくなってしまった。

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