《MUMEI》

.


―――名前も知らない、男の人。



二言三言、言葉は交わしたけれど、さして大した内容でもない。



それなのに、何故か懐かしい気持ちが溢れたのは、気のせいだったのだろうか。



わたしはぼんやりと彼の後ろ姿を見送ってから、持っていた絵本を棚に戻して、自動販売機へ向かった。添削の〆切まで時間が無いことを思い出したのだ。

財布の中の小銭を確認しながら、ゆっくり歩いていると、


「すみません!」


また、声をかけられた。

あの、伸びやかな声に。


わたしが驚いて振り返ると、すでに立ち去った筈の彼が、すぐ傍にいた。


彼は戸惑いを孕んだような表情でわたしを見つめた。

「度々、ごめんなさい…」

そこまで言って、彼は黙り込んでしまう。次の言葉が喉のところで引っ掛かり、なかなか口に出せないというように。

バツが悪そうに、顔を俯かせてしまうのだ。


もしかしたら、わたしの説明が不充分で、図書館の場所が判らないのだろうか、と思い付いた。

わたしが、「どうかしましたか?」と優しく先を促すと、

彼は意を決したように表情を引き締めて、背広の内ポケットからカードケースを取り出すと、名刺を一枚抜き、


おもむろにそれをわたしに差し出し、



そして、言うのだ。




「…良かったら、連絡下さい」




―――元来、わたしは疑り深く、

他人の言葉をそのまま素直に受け取ることは、絶対に、しない。



信じるより先に、まず疑う。



人の心の裏側を、必死に探ろうとする。


『安心出来る』と確信するまでは、何があっても心を開かない。



それは、後々に『騙された』と、深く傷つかない為の、わたしなりの防衛策。



そうやって、今までずっと生きてきた。



そんなわたしが、何の躊躇いもなく、彼から名刺を受け取ったのは、


見ず知らずの彼のことを、すでに受け入れていたのだろう。


―――初めて彼の目を見つめた、その瞬間から。



.

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫