《MUMEI》 . ラボに戻ってデスクに座り、わたしは彼から貰った名刺を、じっくり眺めた。 名刺の表には、大手保険会社の名前と支店名、営業課課長という肩書き、 そして、 『川嶋 隆弘』という文字。 その一番右下に、小さく会社用のアドレスと代表電話番号が印刷されている。 わたしは、名刺をひっくり返した。 表とは違い、裏側は何もプリントされていなかったけれど、 その代わり、 携帯の番号が、手書きで書かれていた。 ―――良かったら、連絡下さい。 ―――連絡、ですか? ―――怪しい者じゃないです。いきなりこんなこと言って、充分怪しいかもしれないけど。 ―――でも、なんで…。 ―――ゆっくり、お話が出来たらな、と思って。 ―――お話? ―――…連絡、待ってます。 別れ際、彼と交わした数少ない言葉たち。それはわたしの耳に鮮明に蘇っては、だんだんと遠退いていく。まるで、幻のように。 添削をそっちのけで、わたしは、何度も名刺を見つめた。それどころではなかった。何度も、何度も、繰り返し、繰り返し裏返して眺めては、彼の真意を探っていた。 『川嶋 隆弘』という、男の心を。 『話』って、何? 保険の勧誘? 連絡待ってるって、 どういうこと? 胸の中から次々と沸き上がる疑問。それは、不信感を孕んでいて、けして心地の良いものではなかった。 ちょうどそこへ、アシスタント仲間がコンビニからビニール袋をぶら下げて帰ってきた。ドアが開く音を聞き、わたしは慌てて名刺をバックにしまう。 仲間たちはわたしの顔を見て、「添削終わった?」と朗らかに尋ねてきた。わたしが首を横に振ると、「手伝ってあげる」と申し出てくれた。 彼らにレポートを振り分けながら、わたしは、頭の中で、川嶋という彼のことばかり、考えていた。 . 前へ |次へ |
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