《MUMEI》 . そうやってしばらく、黙り込んでいたわたしに、 『…お名前、伺っても良いですか?』 彼が、そよ風のように、優しく尋ねた。 ―――名乗っては、いけない。 このまま、電話を切るんだ。 わたしの中の誰かが、そう警告する。 その声に耳を傾けながら、わたしは目を伏せた。 ―――騙されるな。 みんな、『アイツ』と同じだ。 声と同時に、ひとつの顔が浮かんでくる。 今となっては、鮮明に思い出せない、その顔。 それはかつて、 わたしが唯一、本気で好きになった男のものだ。 ―――平穏に、暮らしたいんだろう? そう、願っていたじゃないか…。 わたしは、目を開ける。 胸の奥で騒ぎ立てる、誰かの声を、遠くへ追いやり、 乾いた唇を、ゆっくり動かした。 「…ヤマモト サツキ」 微かに呟いた、わたしの名前に、 彼は、『…え?』と、聞き返した。 わたしは意を決して、 「山本 皐月です…」 堂々と、自分の名前を彼に名乗った。 彼は少し黙ってから、『サツキさん…』と咀嚼するように呟いたあと、 『俺は、カワシマ タカヒロっていいます』 朗らかに名前を教えてくれた。 彼の返事に、わたしは笑い、「知ってます」と答える。 「名刺に書いてありましたから」 わたしがそう言うと、彼―――隆弘は明るく笑って、『そうでしたね』と柔らかく呟いた。つられて、わたしも笑ってしまう。 一瞬で、空気が和む。 . 前へ |次へ |
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