《MUMEI》

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わたしの返事に、父は力無く、「…そうか」と呟き、わたしから目を逸らすとまたペットボトルに唇を寄せた。

その一連の動作を見つめながら、わたしは、「お父さんは?」と尋ねた。

「ちゃんとご飯、食べたの?」

わたしの問い掛けに、父は少しムスッとして、「…いや」と答えた。

「全部食べられなかった」

それを聞いて、少し心配になる。

「具合、悪かったの?」

静かに尋ねたわたしに、父はそっぽを向いた。

「ここの飯は、不味くて食えたもんじゃない」

拗ねたように答えた父に、わたしは小さく笑う。


そんなふうに適当な会話をしていると、不意に父が壁に掛かっている時計を見遣った。

「約束は、何時だ?」

「間に合うのか?」と、心配そうに尋ねてきた。わたしも時計を見上げる。8時半を回った頃だった。友人との約束は9時。そろそろ病院を出なければ間に合わない。

わたしは椅子から立ち上がり、トートバッグに手を伸ばした。

「それじゃ、わたし帰るね」

父に向かって告げると、彼はわたしの顔を見ないで、「…おう」と答えた。

バックを肩に掛け、ゆっくり病室のドアへ向かうわたしの背中に、


「…色々、すまんな」


と、父が弱々しく声を掛けてきた。

わたしは父を振り返る。父はすでにベッドに横になって、わたしに背中を向けていた。

わたしはその小さな背中を眺めて、「…違うよ」と呟く。

「こういう時は、『ありがとう』って言うのよ」

訂正したわたしに、父はやっぱり振り返ることなく、ただ、「うん…」と曖昧に唸っただけだった。

しばらく父の姿を眺めてから、わたしは、「またね…」と囁き、病室から外に出た。



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