《MUMEI》

 詩織はうっすらと微笑み、馨のうなじに微かな呼吸の吐息を浴びせる。本人は意識していないのだろうが、馨は詩織の目や鼻や口や耳、彼女の顔が自分の首筋に数ミリ程の距離しかないことで、体温が次第に高まるのを実感した。その訳は馨が従姉である詩織の同居人という、同棲とも言える事実が馨の頭に居座っているからであった。実を言うと、詩織は二十六歳で馨は十七歳なのだが、詩織は馨にとって幼い頃から面倒を見てきた、優しい姉のような存在なのだ。中学生の時は、よく詩織の家に行って勉強を教えてもらったり、手料理を振舞ってもらったりして、少なからず係恋していた。だからこそ、今の関係が馨を酷く悩ませてくれる。
 馨は胸の高鳴りを隠そうとして、さりげなく「そういえば」と詩織の右手を握ったまま、そっと胸から離した。
「今日はどうしてこっちのベッドに来たの? 何か悲しいことでもあった?」
 すると詩織は沈黙して、共同している一枚のタオルケットを荒々しく頭に被った。詩織は胸が一杯になると必ず馨のベッドに来る。それは悲しい時だけじゃないし、嬉しい時にもある。だが今日の様子を見たところ、後者の可能性は低いように思える。馨は体を詩織と向かい合うため正面に反転して、タオルケットの上から詩織の頭を撫でた。
「ちゃんと聞いてあげるし、ちゃんと受け止めてあげる。だから、一人で悩まないで。詩織さんの気持は僕が一番よく分かっているつもりだから」
 そう言われると詩織は、タオルケットの中で馨が着ている寝間着用の薄っぺらな長袖シャツの襟元を、強く両手で握りしめた。それはもう、シャツが皺になるんじゃないかというくらいに強く。それに加えて詩織は、顔全体を衣紋にぐっと押し付けた。こうして体を強張らせるということは、よっぽど言いづらいことなのだろうか。だが、馨はだいたいの見当がついていた。それは恐らく、他人から見れば「なんだ、そんなことか」と期待はずれな風に答えることだと思う。そして、思わず呆れて嘆息してしまうことだと思う。だけど、詩織はそういう人間だ。小さな悩み事であっても、まるで大きな悩み事のように大事に懸けるし、この前なんて紙で指先を傷付けただけで涙目になって「どうしよう! 血が出てきちゃった! 絆創膏、絆創膏!」と慌てふためいていた。まったく、二十六歳にもなって子供みたいなことを言ってくれる。

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