《MUMEI》

 だけど、それは他人から見た場合の話だ。感じ方は人それぞれだとは思うけど、たいていの煩いとは、周囲が思っている以上に本人の心を残酷に締め付けているものだと思う。やっぱり、いくら紙で負った浅い傷とはいえ痛いものは痛いし、血を見ることに対する経験が少なければ、それ相応の衝撃だって受ける。だから、詩織はたとえ小さな悲しみでも、どんなに小さな喜びでも何倍にも感情を膨らませて、なにもかもが初めての経験のように物事を受け取るだろう。こうして馨が考えを広げている最中、詩織は緊張が漸く解けてきたのか、タオルケットを頭から剥ぎ、視線は合わせないでか細く言葉を綴り始めた。
「さっき……嫌な夢を見ちゃってね」
「夢?」
「うん。馨がいなくなっちゃう夢。私の元から離れてね、他の女の人と遠くへ行っちゃうの。馨だって、いつかは好きな女の子が出来て好きな女の子と一緒に暮らすでしょ? 我が儘だとは思うんだけど、あの人が亡くなってから心の支えになってくれるのは馨だけだったから、いなくなるのは寂しいと思っちゃって……。でも、私が引き留めちゃ駄目だよね。馨には馨の人生があるんだから」
 そんなことないよ、とは言えなかった。詩織の言うことは確かに正しい。別に詩織と恋仲という関係でいるのではないし、まさかいつまでも一緒に暮らしていく訳にはいかない。いずれは好きな人を見付けて一緒に暮らしたいし、詩織と会えなくなる訳ではないのだから、迷う理由なんて何一つとしてない。だからといって、ごめんね、とも答えることが出来ない。目線を下げてみると詩織の目線とぶつかり合った。その目は「どこにも行かないで」とも「好きな人と一緒になって」とも訴えてはいない。ただ、暗闇でも分かるくらいに瞳の輝きが増していただけだ。判然としない自分がもどかしい。こうして詩織は周囲が思っている以上の煩いを馨に植え付けて、更に胸中を複雑に渦巻かせてくれたのだ。そして空白の時が訪れる。だが、馨はすぐに「でもさ」と、その無言の時間を断ち切った。
「確かに、いつか僕に好きな人が出来ることがあると思うよ。だけど僕は真崎馨であって、真崎詩織をもっとも信頼している人だよ? 詩織さんは一つ忘れてることがあるんじゃないかな?」
 詩織は目を丸くして、きょとんとした顔付きで見上げる。
「たとえ僕に好きな人が出来ても、詩織さんを見捨てないってことをさ」
 ああ、またくさい台詞を言ってしまったな。そう思って馨は、詩織から目を逸らすなり目線を宙で泳がせる。次第に顔まで暑くなってきた。だが、部屋の中は真っ暗闇であるから、頬の火照りがばれることはないだろう。カーテンを閉めていなければ、街灯や月光によってばれていたかもしれない。ばれてしまえば、もっと照れ臭い。だが詩織は、そんなことはお構いなく両腕を馨の背中に回して、今までで一番強く抱きしめた。正直痛くて、詩織の力が意外に強いことに驚きだ。

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