《MUMEI》 「か、馨〜!」 詩織は感極まったのか、猫のように頬を擦り付けてきた。 「ありがとう、馨。本当に……ありがとう。貴方がいてくれて、本当に良かったよ」 よっぽど嬉しかったのだろう。詩織は先の悲しみを喜びに変えて、涙腺から少しだけ想いを溢れ出させている。こうして見ると、詩織よりも馨の方が年上であるように見えてしまう。そのうち詩織は安心してしまったのか、馨の腕の中でうつらうつらとして新たに夢路を辿りだしたのであった。 それから詩織の意識が消え、部屋には馨だけが残される。馨は詩織に縋られたことが間違いなく嬉しかった。しかし、必ずしもそうとは言えず、寂漠たる深夜で一人小さく溜息を漏らした。こうして甘えてくるということは、まだ詩織の中では夫と死別した時のことを吹っ切れていないんだろう。実の父母に愛想を尽かした馨と違って、詩織はまだ気持を切り替えることが出来ないのかもしれない。馨は目を閉じ、悲惨を極めた過去を心に描き出した。 中学校を卒業して高校へ進学しようと、馨が勉強に勤しんでいる時。それはだいたい、二年と数ヶ月前のことだろうか。将来は雑誌編集の職に就いて、バリバリと仕事をこなして、休日には居酒屋なんかで同年代の女性と恋に落ちて、情熱的な仕事と情熱的な恋愛を思い描くことだけが、この時の馨が活力を見いだせる一瞬だった。だから、学校が終われば即座に県立図書館に赴いて勉強をしていたのだ。それには、父親が会社に働きに行っているし、母親も何故か家に居らず、家に帰っても一人ぼっちという理由があった。 一応、父親は晩御飯の時にまでは帰って来るものの、毎日遅くまで働いているため、家にすぐ帰ってもいないことが殆どだ。母親……あの人に至っては、何をしているのか全く理解できない。いや、理解したくもない。昼間から酒を飲んだり、父子がいるにも拘わらず他の男を追い掛けたりで、尊敬すべきところなんて何一つとして無い。こんな母親なんているものか、と今となっては呆れ果ててしまうけれど、残念ながら当時は母親とはこんなものなのだと納得していた。 前へ |次へ |
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