《MUMEI》

 そして階段を降り終えると、エプロン姿の詩織が台所にいた。詩織は馨の存在に気付き、微笑みながら「おはよう」と挨拶をする。こんなにも快い朝を迎えられるなんて、今の自分は少し贅沢かもしれない。馨は薄く笑い「おはよう」と返した。だがその贅沢な理由は、詩織の切り揃えられた前髪に、烏の髪とも言える艶めいた黒を朝から見られることにもあるのかもしれない。詩織は自分の保護者だと頭の中で理解していても、ついうっとり見取れてしまう。詩織は御玉で滑子の浮いた味噌汁を掬い、杓文字で白くふっくらとした米を盛りつけた。何とも微笑ましい光景だ。
 それから二人は朝食を取ろうと、テーブルを挟み合う形で向かい合った。台上には昆布の佃煮やら、目玉焼きやらの副食もある。馨がパチンッと手を合わせると、詩織も手を合わせ、二人は同時に「いただきます」と声を揃えた。そして馨がソースに手を伸ばした瞬間、「ねぇ」という詩織の声で僅かに手が止まる。そして、詩織はすかさず馨の手に醤油を握らせた。
 詩織は目玉焼きにソースをかけるのが許せないのかもしれない。まったく、人の趣向くらいは好きにさせてほしいものだ。馨は手にした醤油を見て、鼻から「ふぅ」と息を抜いて目玉焼きに醤油をかけた。
「別に、目玉焼きにソースかけても良いだろ? まぁ、醤油も嫌いじゃないけどさぁ」
「うふふ。目玉焼きには醤油が一番合うって決まってるの。ソースなんて邪道よ。馨を悪の道に染める訳にはいかないわ」
 悪の道って……。目玉焼きの味付けがそこまで重要だろうか。まぁ、詩織が細かい所にこだわりを持っているのは知っていたことだし、説得しても無駄なのだろう。そして、詩織は馨が醤油かけて目玉焼きを口に運ぶのを見守ると、満足そうに自分の目玉焼きを口にした。
「そういえば馨って、明日から夏休みよね?」
「そうだけど、それがどうかした?」
「私ね、馨のために安〜い家庭教師、頼んじゃった」
 一瞬、頭の中が真っ白に塗り潰された。詩織の言ったことを理解できない。馨は、罰が悪そうに舌を少しだけ見せて、可愛らしくウインクしている詩織を十秒程、何も考えずに見つめた。そして、その直後に何のことかを完全に理解する。

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