《MUMEI》

「……和泉」
穏やかに耳元で呟いてやれば
小林の表情が、その途端に穏やかなソレへと変化していた
夢現でだが、初めて見る無垢な笑い顔
その表情は、小林がこれまで如何に幸福な日々を過ごしていたのかを窺わせる
ソレを全て失ってしまった今、彼は何所へ向かっているのだろうと
何故か、そんな事を考えてしまう
「……本当に、どうかしてる」
溜息混じりにまた呟くと
畑中は何をするつもりなのか小林の頬へとゆるり手を伸ばす
受け入れてやろうとしているのか、それとも突き放そうとしているのか
畑中本人にすら分からず、唯手ばかりを伸ばしていた
「……お帰り。二人共」
子供の様な笑みに顔jは更に緩み
身動きが取れなくなてしまう程に益々抱き込まれてしまう
縋らせてやろう、と先の言葉通り
畑中はその腕を無理に解く事はしなかった
夢の中だけ、せめてそこでだけでも
求めてしまうモノの代わりになってやろうと、そんな事をどうしてか考えて
漸く小林の寝息が穏やかなソレへと変わった事に畑中は安堵した
その直後
店側の入り口が開く音がなる
まだ開店時間には早い、と畑中は店の戸を開きながら
「ごめんなさいね。まだ開店時間じゃ……」
仕事用の身なりに適当に着替え、店へと降りて行けば
其処に、予想もしていなかった人物が立っていた
「次はアンタか……。よくもまぁ次から次へと……」
「あの子供が居るだろう、出せ」
畑中の実父
顔を見合わせるなり、矢継ぎ早に問う事をして来る
「いきなり、何だ?」
「お前には関係のないことだ。あの子は、奥か?」
畑中の問う声には何一つ返す事はせず
父親は勝手知ったると家の奥へ
「おい、何勝手に……」
当然、畑中は異を唱えながらその後を追う
そして奥にあるベッド
其処にあるベッドで寝入る小林を見つけ、父親は強引にその身を抱き起こしていた
「……何、してる」
父親を睨みつけ、低く呟く畑中へ
父親は仕方がないといった様子で溜息をつきながら
「そうだな。強ち、お前に無関係という訳でもないか」
独り言でなにかを確認する様な独り言を父親は呟きながら
「この子供を、我が家に嫁がせようと思う」
「は?」
予想だにしなかったその言葉に、畑中はつい怪訝な表情と声で問う
訳が分からないといった様な畑中へ
父親は態々深溜息をついていた
「……お前は、まるで人事だな」
「テメェがさっきいたんだろうが。俺には関係ないって」
だから関係もなければ興味もない、と言い切った畑中へ
父親は深く溜息をつきながら
徐に紙を一枚畑中へと渡してきた
「……これは何かの冗談か?この薄らハゲ」
渡されたのは、何故か婚姻届
其処には畑中と小林の名前が書きこまれ、しっかりと印まで押されていた
ソレを見、当然訝しまない訳が無い
説明を求めてみれば
「……さっきも言っただろう。この子を、私の跡継ぎにすると」
「……等々脳ミソイカレたか?俺が聞きたいのは、この婚姻届の意味だ」
中々進展する様子のない会話に畑中は飽き
用件を手短に、と父親へと迫る
「……何、企んでる?」
「企む、とは人聞きがわるいな、和志」
「言われる心当たり位はあるだろうが」
「……これは手厳しいな」
頑なな畑中の様に
父親はやれやれと肩をすくめると
踵を返していた
「……また、出直すとしようか。いまの状態では話など聞いてはもらえないだろうから」
僅かな嘲笑を残し、父親はその場を後に
戸が閉じる音を微かに聞き、畑中は手の中に残されたままの婚姻届を徐に握り潰していた
腹いせに、と当てもなくソレを投げつければ
それが丁度、小林が寝ている寝室の戸に当たる
その音の所為かは解らないが、戸越しに物音が聞こえ
そしてゆるり開いた其処から、小林は現れる
「……何か、うるせぇぞ」
すっかり眼が覚めてしまった事に若干不機嫌気味の小林
様子を窺う様に一歩、寝室から出た、丁度その時
畑中が放り投げた紙くずを脚先で蹴りつける
「何。これ……」
蹴ってしまったものが気になったのか
丸められてしまっているソレをわざわざ開き、そして見てみた
途端に小林の動きがピタリと止まってしまっていた
「な、何だよこれ!テメェ、ちゃんと説明しろ!」

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