《MUMEI》

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その幻聴に促されるように、わたしはゆっくり振り返った。


レストルームには、無論、誰もいない。


身体中が、震え出す。


あの台詞を聞いた時、わたしは真っ先に、『彼』に言わなければならなかった言葉があった。それを口にしてさえいれば、わたしは今、こんな場所でたった独りで、こんな途方もない悲しみに暮れることは、なかった筈なのに。


「…もう、遅いよ」


わたしは自分に言い聞かせるように、ぽつんと呟いた。



後悔しても、もう遅い。

時間は、戻らない。



どんなに切望しようとも…。



その時、レストルームの扉が軽快に開き、女の人がひとり、中へ入ってきた。

わたしは彼女にぼんやり視線を向ける。

その人はきれいな化粧をして、ジョーゼットのようなピンクのワンピースを来ていて、正しく今流行りの格好をしていた。わたしとは、正反対の場所にいる人だ、とぼんやり思った。

彼女は、わたしが洗面台でぼうっと立ち尽くしていることにまずは驚き、それから、まるで不審者でも見るかのような意地悪い不躾な視線を向けてきた。

わたしはいたたまれず、彼女から目を逸らし、ゆっくりとレストルームから出ていった。



******



わたしがテーブルに戻った時、隆弘は厳しい顔をして俯いていた。身動ぎすることもなく、何かを思い詰めるような目付きで、じっと自分の手元を眺めて。明らかに、楽しんでいるような雰囲気ではない。



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