《MUMEI》

 翌日、カーテンの隙間から差し込んでくる朝陽に目覚めを促された井上
背伸びしながらゆるり起き上がってみた其処は
どうやら昨日、そのまま連れ帰られたらしく、すっかり見慣れてしまった屋敷の一室だった
「……そっか。私、昨日――」
昨日の事出来事を思い出し、井上は身を震わせながら自身の身体を抱きしめる
「大丈夫。もう、大丈夫」
何度も自身へ言い聞かせようとする井上
暫くそのままベッドの上で蹲っていると、何処からか紅茶の香りが漂ってきた
「起きたか?」
片手にトレイを器用に乗せた藤田が部屋の中へ
井上が起きている事を確認すると
テーブルへとトレイを置き、慣れた手つきで紅茶を淹れていく
その動作の優雅さに見とれていると、カップが差し出される
「あ、ありがと」
一言礼を伝え、カップを受け取ると一口
蜂蜜でも入っているのか、仄かな甘みが口の中へと広がる
その味に井上がほっと胸を撫で下ろしていると
藤田がどうしたのか、その傍らへと腰を降ろしてきた
「……清正?」
どうしたのか、首を傾げながら藤田の方を見やれば
不意に伸ばされた藤田の腕にふわり引き寄せられていた
背後から抱きこまれる形になり
紅茶を持つ井上の手に藤田のソレが添えられカップを唇まで運ばれる
「……美味し」
二口目は更に香り、無意識に藤田へと身を委ねてしまえば
藤田は井上を抱き返してやりながら
そして暫く後、奥方が呼んでいる胸を伝える
「奥様が?」
「ああ。昨日の事でお前に謝りたいんだと。どうする?」
「別に、奥様が謝らなくても……」
「自分の娘が仕出かした事だからな、責任取ろうってんだろ。ここは謝って貰っとけ」
まるで土産物を貰うかの様な気軽さの藤田
だが井上にしてみれば、昨日のあの出来事を思い出してしまい些か複雑な心持ちだった
「……清正、一緒に来てくれる?」
その事実に一人正面から対峙する事は今は耐えられない、と
つい藤田へと縋ってしまえば
藤田は井上の手を徐に掬いあげ、左手の薬指へと口付けていた
「お嬢様の、仰せのままに」
まるで何かを使う様なそのキスに、井上の顔は瞬間に真っ赤
恥ずかしさを隠すため、勢いよく立ちあがり
顔は赤いまま逃げる様に居間へ
入るなり、井上の脚がピタリと止まった
「お早う。気分は如何?」
居間のソファに堂々と居座るお嬢様の姿
井上がやはり身体を強張らせた事に藤田は気付き、さりげなく庇う様に立ち位置を変える
「そんな恐い顔しないでよ。今日は態々謝りに帰って来たんだから」
昨日の今日で何を謝るつもりでいるのか
漂々としたその態度に、井上は腹が立ったがそれ以上に怖さが勝った
「……こんな、平凡な子」
吐き捨てる様に呟き、お嬢様の手が井上へと伸びてくる
その手に触れられていまう事が今恐怖でしかない井上は顔面蒼白で
完璧に血の気を引かせてしまっている井上を、その傍らの藤田が若干手荒く抱いていた
「清、正……」
「落ち着け、大丈夫だから」
まるで幼子を宥めるかの様に何度も何度も
自信を包んでくれている藤田の腕に、井上は徐々に落ち着きを取りもどす
「……やっぱり、その子の方がいいんだ。清正」
井上を抱きしめてやる藤田の様を見、お嬢様の顔が寂しげに歪む
だがすぐに造った様な笑みを浮かべ立ち上がると踵を返していた
「良かったな、清正。本気で仕えたいってお嬢様が見つかって。じゃ、僕店に戻るから」
バイバイ、と気軽い挨拶を残し、お嬢様は自宅である筈のソコを後にした
ソレを引きとめることはどうしてか誰もする事はなく
井上はその背を眺め、そしてどうすればいいのかと奥方へと訴える
「……いいのよ。どんな理由にしろあの子がした事は許される事じゃない。また一からやり直させなないと」
「奥様……」
「あの子が帰ってきたいと思った時にありのままのあの子を受け止めてあげる。母親として私がしてあげられるのは、それ位だから」
そう言いながら笑う奥方はその言葉通りの優し気な母親の顔
向けられたそ笑みに、井上は漸く身体の強張りを解き
お嬢様のこれからをどうしてか案じながら、返事代りに井上も笑みを返していた……

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