《MUMEI》
Lesson4
 「……此処とも今日でお別れか」
翌日
自身の荷を鞄へと詰め込みながら井上は徐に呟く
奥方から、これ以上の迷惑はかけられない、とお嬢様契約の終了を告げられたのがつい朝方の事
契約の終了
ソレに伴い井上はこの部屋を出て行かなければならず
今まさに、その身支度の真っ最中だった
「……何か、色々な事があったな」
あの後、お嬢様が一体どうなったのか
気になった井上が藤田に問うてみたところ
都内のそのテの店で働いているとの連絡が有った事を教えられた
「……あの子、清正の事、本当に好きだったんだ」
そう呟きながら、不意に藤田の顔が脳裏に浮かぶ
「……いつの間に、好きになってたんだろ。単純なんだから、私も」
お嬢様としてこの家に居た間中、常に傍らに居てくれていた藤田へ
特別な感情を抱き始めている事に今漸く気付き
だがそれは決して届く事のないものなのだと、井上は一人苦笑してしまっていた
「駄目、駄目。考えてちゃ!さ、帰ろ」
存外大きくなり過ぎてしまった荷を何とか抱え部屋を出る
出るなり、背後から伸びてきた手に、軽々と荷を掬いあげられた
「き、清正!」
「デケェ荷だな。こんなにもなに入ってんだか」
「い、いいでしょ、別に!色々なんだから」
「色々、ね。ま、別にいいけど」
普段通り、他愛のないやり取りを交わしながら下へと降りて
居間にいた奥方へと世話になった礼を伝えれば
「こちらこそ本当にありがとう。これ、少ないけれどバイト代。受け取って」
手の平に茶封筒を渡される
バイト代としての当然の報酬
井上はその好意に素直に甘えさせて貰う事にした
「有難う御座います」
深々一礼すれば
その瞬間、奥方の表情が寂しげに曇る
「でも、紗弥さんが居なくなってしまうのはとても寂しいわ……」
「また、奥様に会いに来ます。遊びに、来てもいいですか?」
「勿論よ。いつでも、いらしてね」
互いに社交辞令的な会話を交わし、そして井上は改めて頭を下げるとその場を後に
廊下を、見送りにと付いて歩く藤田と二人、会話も少なく歩いて
玄関へと到着すると、藤田から荷をまた受け取った
「もう、此処まででいい。私、一人で帰れるから」
これ以上一緒に居てしまったら別れ辛くなってしまう、と
藤田には勘付かれないよう努めて明るくふるまう
だが藤田は井上の抱える大量の荷をちらり見やりながら
「そんな荷抱えて歩いて帰る気か?」
「遠くないし、大丈夫。今までありがと、清正」
だが井上はこれ以上居る訳にはいかないと
早々に会話を打ち切って
井上はそれじゃ、と扉へと手を掛けた
その瞬間
突然背後から、藤田の腕が井上へと伸びてきた
まるで引き留めるかの様なソレに驚き藤田へと向き直ってみれば
その瞬間、唇に触れてくる何か
ソレが藤田の唇である事に気が付いたのは唇が離れて暫く後
何事かと井上は顔面真っ赤だ
「き、清正!?」
「何だ?」
「い、今あんた、キス……」
「ああ、したな。もしかして初めてだったか?」
「そうだけど、そうじゃなくて!」
からかうような物言いに文句を言ってやりながら
井上が聞きたいのはそのキスの理由
つい、してはいけない期待をしてしまいそうになるのを堪えながら
何故かを、藤田へと改めて問い詰めてやる
「……言わないと、解らないか?」
井上の耳元まで態々唇を近く寄せての低い囁き
もしかしたら、井上と同じ感情を藤田も同じくしてくれているのではと
もしそうなら、それを藤田の口から直接聞きたかった
「言葉にしてくれないと、わかんない。私、馬鹿だから」
だから、言って欲しい
そう強請ってやれば、藤田の困った様な笑い顔が目の前
最近、藤田のこの顔が好きな事に気が付いた
この男の全部を、この男に全部を
独占したい、独占されたいと
いつの間にかそんな我儘な事さえ考える様になってしまっている自身に肩を揺らして見せれば
「……俺と一生の(お嬢様契約)、交わしては戴けませんか、紗弥」
追い討つ様に告白の言葉が耳元で囁かれた
低く、甘やかなその声で囁かれてしまえば、否と返す事など井上に出来るわけがない

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