《MUMEI》
背徳者
.


―――隆弘と会う約束の、木曜日。


定時が近づくにつれ、わたしは何度も何度も腕時計に目を遣りながら、落ち着かない様子でソワソワしていた。


早く、隆弘に会いたかった。


この息苦しい現状から、少しでも逃げたかった。


わたしはまた、時計を見る。あと、20分で仕事が終わる。

仕事を終えたらすぐに学校を出て、急いで電車に乗っても、約束の時間にギリギリだ。


学校を出る前に、化粧を簡単に直したい。髪型は乱れていないだろうか。ヘアピンを持って来れば良かった…。


デスクに向かい、ぼんやりと仕事と関係ないことを考えていると、突然、講師に名前を呼ばれた。

「今日、残業してもらえる?」

わたしはビックリして、つい言葉を無くしてしまった。残業?これから?よりによって、何故今日なのか…。


講師によれば、今日、生徒に配る予定だった、発音矯正のテープの録音が、まだ、終わっていないからということだった。他のアシスタントは別の仕事を任せていて、手が空いているのはわたしくらいだから、お願いしたいという。

「あと2時間くらい、お願い出来ないかな?」

顔を覗き込まれて、頼まれた。わたしは俯いた。どうしよう。2時間、残業したら、10時半に学校を出ることになる。それから隆弘と会っても、終電まで1時間くらいしかない。それに、急遽残業になったと隆弘に連絡したなら、『じゃあ、今日はやめとこうか』、と言われるのは目に見えていた。

それだけは、絶対に、避けたい。

でも、他のアシスタント達も残業している以上、わたしだけ帰りたいと言うのも気がひけて、黙り込んでしまった。

わたしが悩んでいる様子を察知した講師は首を傾げる。

「今日、駄目だった?何か予定あるの?」

「予定というか…」

「どうしても外せない用事なの?」

「…どうしてもという訳じゃなくて、その…」

尋ねられて、わたしは歯切れ悪く答え、目を泳がせる。それ以上、何も言えずにいた。


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