《MUMEI》

.


食事を終えて、お店を出ると、11時を過ぎていた。


たくさんの人が行き交う駅前で、わたし達は足を止める。

「ごちそうさまでした」

「それじゃ…」と言って、改札口に向かおうとしたわたしの腕を、隆弘が力強く引き寄せた。わたしの身体は、彼の腕の中にすっぽり収まってしまう。

ビックリして、身体を離そうとするわたしの耳元で、


「今日は、キスしないの?」


隆弘が優しく囁いた。

わたしは身体が強張るのを感じた。身動きが、取れない。まるで、魔法にかかったように。

「…そういうのは、ダメですよ」

掠れた声で拒んだ。心の中で、葛藤が生まれる。

彼には家族がいる。

本来、わたしと、そういうことをしては、いけないのだ。


…でも。


隆弘の腕に囚われたまま、わたしはじっと身を固くしていた。

しばらくの沈黙の後、

「じゃあ、俺がする…」

甘く囁いて、彼はわたしの頬に軽いキスをした。

その瞬間、顔が、身体が、熱に浮かされたように熱くなる。

わたしが顔を俯かせると、隆弘はするりとわたしの身体を解放した。ひんやりとした冷たい風が、わたしの火照った身体を包み込む。

恐る恐る顔をあげると、隆弘は少し離れた場所で、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。

「明日、仕事?」

柔らかく流れてきた抑揚に、わたしは聞き惚れながら、ゆっくりと頷く。

わたしの反応に、彼は満足げに微笑み、「頑張ってね」と言った。

「気をつけて帰れよ」

「…はい」

「またね」

そう言い残すと、隆弘は颯爽と人混みに紛れて消えた。

わたしは身体中の熱を感じながら、しばらくそこから動けずにいた。



******

前へ |次へ


作品目次へ
感想掲示板へ
携帯小説検索(ランキング)へ
栞の一覧へ
この小説は無銘文庫を利用して執筆されています。無銘文庫は誰でも作家になれる無料の携帯・スマートフォン小説サイトです!
新規作家登録する

携帯小説の
無銘文庫