《MUMEI》 . 頭の中で、 ゆらゆら、ゆらゆらと、儚く揺らめくものがあった。 それは、過去の記憶。 わたしと元治の距離が、初めてグッと近づいた、あの飲み会―――。 「…こんばんは」 わたしが呼び掛けた声に気がつき、元治はゆっくり振り返った。そして、わたしの姿を見て、少し目を見張る。 「えっと…」と口ごもりながら、想いを巡らせるように、瞬きをした。 「山本…サツキさん、だっけ…?」 不意に名前を呼ばれ、わたしは心が震えた。まさか、と思った。元治が、わたしの名前を知っているなんて、思いもしなかったから。 「…覚えててくれたんですか?」 掠れた声で聞き返すと、元治は屈託なく笑い、「もちろん!」とはっきり答えた。 「試合、よく見に来てくれたじゃん」 「気づいてたんですか!?」 「うん。いつも観戦席の一番後ろに独りで座ってたでしょ?しょっちゅう来てるから、ずっと気になってた」 笑いながらそう言われて、わたしは顔から火が出そうだった。自分の気持ちが元治にバレてしまっているような気がして、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方なかった。 真っ赤な顔を俯かせて、グラスを持ったまま立っているわたしに、元治は柔らかく穏やかな声で、空いていた隣の席を指差した。 「座んなよ」 促されて、わたしは元治の顔を見た。無反応のわたしに、彼は少し首を傾げて、「隣、いや?」と囁く。甘く清々しい、声で。 わたしがおずおずと隣に腰かけると、元治はにっこり笑って、 「卒業、おめでとう!」 爽やかな掛け声とともに、わたしのグラスに自分のビールジョッキを軽く当てた。鼓膜に、カン…と心地の良い響きが広がった。 . 前へ |次へ |
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