《MUMEI》
.prologue
 黒崎煉の公式


 気が付いたら、少年は暗く、そしてどこまでも深い闇の中にいた。
 そこがどこなのか、自分が何故そんな不可思議な場所にいるのか、全く理解できなかった。
 だが、そんな中で一つだけ、感覚的に理解できたことがあった。
 ここには、何も無い。

 彼は絶望した。
 その淵から這い上がることなど、不可能だと苦悩した。
 何も無く、ただただ空虚な世界、空間。
 彼は自分の両掌に目線を落とし、恐ろしい孤独感に苛まれた。
 ここにいることで自分には何も訪れない。
 どういう訳かそういうことばかりは理解できた。したくもないのに、できてしまった。
 どこを見渡しても、ひたすら漆黒の世界。光など一分も、見えはしない。
 彼はその場にへたり込み、何事かを喚き散らしながら頭を抱え、目を閉じた。
 彼の深層意識が、また違った空間に飛ばされた。

 そこは現世だった。それも、自分が住んでいた、住み慣れた土地だった。
 彼に光が射した気がした。が、それも、希望が生み出した錯覚に過ぎないものだった。
 近くのケーキ屋のウィンドウを覗き込む。そこにはある筈の自分の姿が映らなかった。道行く通行人の姿は映し出されども、自分の姿形が投影されることは無かった。
 それを見た途端に訳が解らなくなった。
 一体今自らの身に何が起きているのか、全く解せなかった。
 彼はかいたことのないような冷たい冷や汗をだらだら垂れ流しつつ、街中を闇雲に右へ左へ、縦横無尽に走り回った。方法の如何によらず、どうにかして自分のことを理解したかった。自らの現状を正しく認識したかった。
 走って走って走り続けて、
 そして行き着いた、そこは、
 彼の自宅だった。
 彼は施錠されていなかった玄関から入る。ただいま。言おうとしたのだが、言葉が口から出てこなかった。口は動いても、発声することができない。
 更なる不信感を抱きつつ、彼はずかずかと進んでった。
 最初に入ったそこ、
 そこは仏壇のある部屋だった。
 仏壇には見慣れた祖父母の遺影と、
 その脇に自分の写真が飾られているのが目に留まり、ただ純粋に驚愕した。
「俺は……」
 ようやく口から漏れ出たのは、そんな間抜け極まりない言葉。
 そして徐々に、以前の記憶が戻ってくる。
 あの日、あの時。今のカレンダーの日付から確認すると、どうやら十日程は前。
 彼は学校帰り、スーパーに寄って買い物をして帰ろうと考えていた。
 数日分の食料を買い占め、そのスーパーを後にし、

 それは余りにも突然な、痛ましい惨劇。

 頭部が疼いた。数年前の古傷が開いたような激痛がほとばしった。たまらず彼は頭を押さえた。目つきを危なく眇めながら、あの時の記憶を辿る。
 あの時は確か雨が降っていて、視界は相当悪かった。彼は傘を差しながらエコバッグと通学鞄も抱え、えっちらおっちら歩を刻んでいる途中だったのだ。
 辺りは既に暗くなっていたが、不意に明るくなった。交差点で右側から、眩いヘッドライトが彼に浴びせられていたのだ。
 数瞬の後、彼の体は宙に舞っていた。軽車両の前部が彼の右脇腹にのめり込み、そのまま弾き飛ばしたのだ。受け身を取る余裕も、ましてやその突撃を回避する余裕さえも無かった。十数メートルは吹っ飛び、彼は足や腕ではなく後頭部で着地した。叩き付けられた時のそれまで受けたことの無いような強烈な衝撃で、彼は意識を喪失した。その場に鞄と傘が転がった。
 間も無くしてその軽車両はその場から逃走した。
 結局彼は、およそ一時間の後にたまたま通りかかった通行人に発見されるまで、意識が回復することも無く、生きていく上で失ってはいけない量の血を失いながら、ただ雨粒に叩かれていた。
 そしてその時点で、彼の生命機能は稼動していなかった。
 数分した救急車によって最寄の病院へと搬送されたが、医師の診断により約三十分程して正式に死亡が確認された。
 彼は後頭部強打による脳挫傷で、その十七年と二ヶ月という短い生涯を、誰にも看取られること無く孤独のうちに終えた。

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