《MUMEI》
サクラサク〜マナー違反の花見客〜A
「確かに人間はほとんどが自己中心的な動物です」
 女はそよ風のような口調で言葉を紡ぎ始める。先ほどの男とはまるで正反対の声色で。
「しかし家族以外の他者、全くの赤の他人を思いやる事ができるのもまた人間という動物の本質です」
 中にはああいう無神経な事をする輩もいますが、と女はゴミを一瞥する。
「倫理観を持ち、お互いに不利益を与えないよう生活する事ができている。この世界はそうやって、つつがなく回っています」
 男を正視し、女は息を吸った後、
「そういう現実がある以上、父の先ほどの言葉は狭小的と言わざるを得ません」
 きっぱりと制した。
 顔面を床に向けたまま、男は身動ぐ。
「よって父がこの世界で生きるかぎり、ある程度の束縛は受けて叱るべきであり、自由気儘に生きる事など許されません。まして……」
 ここで女は言葉を区切った。室内に一瞬静寂が訪れるが、それはすぐに霧散した。外からの怒鳴り声によって。

「おい誰だ、ここの枝を折った馬鹿は!?」

「桜の枝を持ち帰って良い理由があるはずないのです。大人なら公共のマナーは守りましょう」
 女は涼やかな甘言に多少の呆れを滲ませていた。男は直ぐ様反論しようと顔を上げる。その顔には大粒の涙と汗が浮かんでいた。
「私だってこんな事したくなかった。しかしこうしなければならなくなったのだ……あの愚者共のせいでっ」
 ちくしょう、と手で腿を叩く。その瞬間声にならない悲鳴を洩らし、立ち上がった。
「立っていいと言いましたか? 正座して下さい」
「しかしだね。見ての通りもう足が……」
 女は冷やかに、目の端に涙を溜める男を見据える。その全身は足を起点にぶるぶると揺れ動いていた。フッ、と女性は天女のような微笑みを浮かべ、告げる。
「正座して下さい」
「……はい」
 男は名状しがたい威圧感を受け、すごすごとリノリウムの床に座った。その顔は真っ赤を通り越して真っ青に変色しつつある。
「恥ずかしくないんですか? 花見の場所取りに失敗しただけでこんな子どもみたいな事をした挙げ句、責任転嫁じみた言い訳して。いい大人が」
 女は机の上にある桜の枝と日本酒を一見し、ため息を吐いた。
「ここからでも十分満喫できるでしょうに、可哀相な事を……」
 女は正座する父の横を通り抜け、窓枠に手を乗せる。
 視界には体の一部を失いながらも、美しい花の舞いを見せる桜が映った。

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