《MUMEI》
後編(立類国上陸〜四家一門衆降伏)
585年(原年115年)に第二次原島合戦が勃発してから約7年、両国の総帥であった者は互いに失脚し、新たな政権が築かれつつあった。
香金国では、第二次原島合戦による兵力弱体や食難、父・成彦の追尾応襲により、時の香金国大権者・成継は妻子を残しやむなく国外逃亡し、その後成彦は香金王・三務理の惨殺や香金平等法嚠王の自称など暴虐を極めた。

立類国では、第二次原島合戦後、時の立類国大権者・千源王は自身の兵力損失を補填する為、立類皇の御名のもと、588年(原年118年)、「敗兵比割国令」を発布し、藤近勢力の牽制に成功したものの、国の困窮は抑えられず、民意を失い、590年(原年120年)立類太平国大皇を退位し“皇位者”としての体面を投げ出した。

【※敗兵比割国令とは、原島合戦にて立類皇との裏取引により、藤近森広が国土防衛の任につき、ほとんど兵力を消費しない一方、大権者・千源王の兵力が大きく消耗し、藤近勢力のみが無傷に近い状態であり、権力が転覆する危惧があったため発令された。諸侯の合戦後の残存兵力を総計し出兵時から損失の割合を算出し、それに比例して兵力を補充するものである。大きく損失した千源王に利となる策であったが、森広は当初から兵力数を虚偽報告しており実兵力はその2倍以上保有しており、牽制はできれど力を削ぐには至らなかった。】

591年(原年121年)1月の原島会議では、降格した皇位・立類禁士斎皇としてではなく、退位の経緯から立類皇より賜った勲位・太平皇として大権者に就き、“執政者”としての体面は存続していた。ところが592年(原年122年)の原島会議で前年に引き続き大権者として就こうとしていた千源王を藤近森広が大権状の正当性を立類皇に問い「皇位尊重」として、千源王を大権者の地位から引き下ろした。(緑王の略)

当時の皇位序列で見れば、皇位二位の立類緑士斎皇に長らく就任していた藤近森広のほうが、皇位五位である立類禁士斎皇に就いた千源王よりは遥かに上位であった。皇位尊重となった現下、藤近森広は千源王に代わり暫定的に大権者となった。

立類で政変が起こっている最中にも成継は、未だ成彦の影響が及んでいなく、香金国の政変を未だ知らない香金国原島・香琳殿で新たな拠点を築き、磯ノ神[海賊の棟梁]の名のもと海賊勢力を取り込み、立類上陸※の支度を着々と進めていた。

【※成継が立類上陸を企図した理由は、香金王が父・成彦により殺害されて国家の支柱が崩れたから(名目上の香金国滅亡)と香金国は今、混乱してるものの敵は度量の測れる強敵であり、勝ち目はないという見解(成継恐父心)と立類国は国主諸侯の分割統治制であり、結び付きが弱く戦略がたやすい(立類簡領心)があったためである。】

593年(原年123年)になると、成継は立類南方の当時北山景光が治めていた北山領より上陸しようという策を立て、原島・香琳殿から行軍を開始した。

同じ頃に立類国では、政変(緑王の略)で千源王を失脚させた藤近森広は、“王政復古”をかかげ、先例である初代立類太平国大皇・王類の「皇位創始」を踏襲し、自ら“新皇位”立類皇位従一位にあたる統・緑士斎皇(令位)を創始し、さらに先例にはない、「皇権一着」といわれる(立類皇と大権者が同じ拠点{公劉池城}に所するという)政策により、立類皇・正負大臣を凰帝城から公劉池城に遷し権力を誇示した(中央集権政策)。これにより森広は敵対する諸侯に権力を示し、戦意力の駆逐を図ろうとしたが、逆に森広に反抗する二大勢力(南方の四家一門衆と北方の千源同盟軍の協力を促してしまい、立類統一がなかなか進まなかったのも事実である。一方で民衆の期待は高揚し、森広は「天下人」、「王家最後の大城主」と讃えられたものである。

594年(原年124年)6月に、四家一門衆の一族・北山景光の治める北山領にわずか戦艦8雙、海賊6000人で乗り込んだ成継だったが、大方の予想を裏切り北山の属城を一ヶ月もせず陥落させる。

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