《MUMEI》

書斎を出ると、菜江さんが心配そうに待っていた。


「宇佐美様?あの人がなにか失礼な事を、したのでしょうか?」


「いえ、心配ないですよ。原稿も頂いてますし、次の約束も致しましたから…。」


菜江さんは、安堵の表情を浮かべた。


それでは、と僕は、坂崎邸を後にした。


帰り道、僕は坂崎先生には、負けたな…と言う気持ちでいっぱいだった。


コンコン…
菜江は、書斎のドアをノックした。


返答がない。暫く待ったが、ドアを静かに開けた。


「あなた?失礼致します。」


坂崎は、居なかった。

「??」
家政婦の八重に、尋ねる。


「八重さん、あの人は…?」


「あ、奥様。旦那様でしたら、今日はお友達が、入院されたとかで、御見舞いに行かれましたよ。」


「そう…御見舞いに。」


菜江は、自分は坂崎の事を、何も知らないのだな、と恥ずかしさで一杯になった。


何も話してくれないあの人…何も聞けないでいる自分に、何故か腹が立った。


玄関で、八重の声がした。


「まあ、宇佐美様、ようこそ、お越し下さいました。」


「こんにちは、坂崎先生と約束していたのですが、御在宅でしょうか?」


「あ、いえ〜只今留守にしておりますが、いらっしゃいましたら、お待ち頂くようにと、申し使っております。さあ、奥へどうぞ、お入り下さい。」


家政婦さんに、促され僕は居間へ通された。

「宇佐美様、こんにちは。」
菜江さんは、軽く会釈した。


「やあ、奥様。お邪魔致します。」
僕は、少し緊張していた。


坂崎は、八重に迎えられ、玄関で帽子と外套を脱いでいた。


「旦那様、お帰りなさいませ。」


奥から、楽しげな話し声が聞こえてくる。


「宇佐美様が、お見えです。奥様がお相手されています。」


「そうか、菜江が。」坂崎は、暫く考えていた。


「旦那様?どうなされましたか?」
八重は、尋ねた。


「いや、なんでもない。」
そう言って、二人の居る居間へ向かった。


坂崎は、居間へ入るや否や、二人の仲睦まじく語る姿を見て、胸に来る物があった。


顔に出さぬ様に、無表情を装った。

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