《MUMEI》
成継史四名武将
〜成継史四名武将〜
著者・羣太夫が成継史で最も好評している武将を初めに紹介したいと思います。

掲載項目
一、人物/二、出身/三、位/四、居城/五、他


一、《香金名将》佐城譱鉦(456〜492)
二、香金国佐城家出身
三、王位一位(初代)香金平等法嚠王令位、勲位二等大臣(王)
四、王楼城
五、佐城清平(太平王)の子、香金国王位創設者、父・清平より473年(原年3年に家督を譲り受けてから領国経営に尽力し、自らの格言を「話を以って国を制す」として話を中心に人心を束ね、香金国の具体的な政権を確立するために484年(原年14年)王位を制定して自ら香金一位香金平等法嚠王に就任し、香金正統を立類国に認識せるために490年(原年20年)に宣戦布告し、第一次原島合戦が勃発して結果的に引き分けとなったものの、人心の損失などで492年(原年22年)に叔父・(佐城)原鹿の謀叛に遭って自刃し、わずか36歳で生涯を閉じた。


一、《香金名将》(三家)成白(511〜583)
二、香金国成家出身
三、王位二位香金彦呂介大王令位、称号:磯ノ神、勲位一等太平王
四、美山城→王楼城→麓山荘
五、成介の子、二代目成家(三家)家総帥、生まれながらの人望と才知で香金王との関係を築き“成白政権”を確立させ、晩年は自分と似て人望と才知のある孫・成継を支えて暴政を行った子・成彦を美山城から追放した。文武両道の采配者【成白派】。異名:恐人成白/流派:神道流・雷神剣の使い手。


一、《立類名将》千源王(529?〜603)
二、立類国正負家千王派出身?
三、皇位一位(第四代)立類太平国大皇令位、勲位一等太平皇、皇位五位立類禁士斎皇令位
四、沼山城?→凰帝城
五、正負家千王派出身と伝えられているが、出生場所などが不明で、色々な諸説があるが最も有力な説が、謎が多い“豪家”「糠透出身説」である。
千源王という名の由来は“千王の源を継ぐ”であり、568年(原年98年)に反王千同盟を結成後、総帥として台頭し、時の大皇・王千との戦線(第二次天割の皇乱)を引き起こして、王千を569年(原年99年)3月に降伏させ、王千とその妻子を処刑し“王家三代”の命脈を断ち、470年(原年100年)1月の原島会議で立類皇・正負大臣より大権状を正式に賜り、第四代・立類太平国大皇に就任した。
大権者としての器量もあり、「千王派初の大皇」と民などの支持も厚かったが、585年(原年115年)の第二次原島合戦以後、大量の損害を出した千源王の政策の反発が増大し、慌てて策(敗兵比割国令)を講じるも、592年(原年122年)1月の原島会議で藤近森広の策略に遭い(緑王の略)、大権状を剥奪されて皇位五位の立類禁士斎皇に降格、その後反藤近同盟を成継と結成し、598年(原年128年)の公劉池城の戦いで藤近森広を破るも、直後に成継の離反に遭い、603年(原年133年)のうすいの陣の戦いで敢え無い最後を遂げた。


一、《立類名将》藤近森広(546〜598)
二、立類国正負家王派藤近家出身
三、皇位従一位統・緑士斎皇令位
四、公劉池城
五、正負家王派藤近家出身で藤近森豊の子、“王家三族”の中で最も有力な名家で“王家三代”の政権中に大皇の補佐役の位:臣皇を歴任した。
しかし若き日の森広は気の弱さがあり、同族の秋氏や門氏などから“弱森”と卑下された。
そのせいか森広は王家に対する反発をもっており、568年(原年98年)に反王千同盟が結成されると加勢し、第二次天割の皇乱を千源王の勝利に貢献し、皇位二位立類緑士斎皇を賜り、千源王の臣下となる。
その千源王が第二次原島合戦を契機に威信が低下するに乗じて、592年(原年122年)原島会議で大権状の正当性を立類皇に問いた策(緑王の略)を講じ、自ら“王類の先例”と号して立類皇位従一位統・緑士斎皇を創位し、“藤近政権”を発足させる。民衆から“王家最後の大城主”“天下人”“緑の斎皇”と讃えられ、藤近家最盛期を迎えるも、成継・千源王による「反藤近同盟」結成後の公劉池城の戦いで敗れ、成継との“流派対決”で王道流の真髄を見せるが無念の最後を遂げる。

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