《MUMEI》 法『律法というものは、当然、社会規範を護る為にある。故に道義的でなければ、可笑しい。』 ある神父がいった。 『神は、神の前にあらせられる。故に神なのだ。』 とある。 実際、神は、眼前に現われた訳ではないが、神は、神を再現した。 このことより、神など、いない。という下りは、神は、神と、神の力を信じるものには、行使され、無信仰なるものには、神は、以下程でもない。という結論を見いだす。 此処に律法の原点がある。神が、神の力を行使するのは、神が、神の信仰を得た時である。故に、神を、神の法に定めあわせ、神の力を神により、御心にあわせるように、神に祈り、迷える小羊に、そのように、神が、なされた事を伝えれば良い。すなわち、神は、小羊である。故に小羊も小羊である。決して、神ではない。 神の法則には、信仰と御心と、法とが、ある。よって、此れは、神に誓い、神とともに在り、人の法を護る事が、神による、神の力の行使を、正しくするものであり、択一なるときは、人に誓い、人と、ともに在り、小羊の法、即ち、律法を護らせる事により、人は、人の力を正しく行使できるのだという誓いである。 故に、小羊は、律法に照らしだされ人の法で裁かれる。決して、動物の法や、小羊の法により、裁かれることなく、また、律法によって、裁かれる事もない。何故なら、小羊であるからである。正しくは、迷える小羊は、正しき人の誘いによって、導かれるのであり、小羊は、決して、人たる法で、裁かれたりは、しない。故に、小羊には、自然がいる。小羊は、自然の法則に従っているのであり、小羊が、人であり、人が、小羊なら、どうであるか。すなわち、自然の法で、裁かれる人ないし、神がいるならば、それすなわち、無限の闘争の殉ずるところであり、人も、神も、また、小羊も、いない。空虚な、世界しか残らないだろう。故に小羊は、導くしかない。 故に、此処に法は、ある。 前へ |次へ |
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