《MUMEI》
心の内部を描く
「火剣さんは横道にそれ過ぎですよう」仲田が口を尖らせた。
「仲田。何だその反骨精神は。俺様のケンカキックは痛いぞ」
「やってみろ」激村が睨む。
「授業を続けよう」
明るく言う火剣。激村は仕方なく教壇に戻った。
「大文豪から妙技を学び、自分のものにする。世界の名作を読み、体得した技を自作で使ってみる。そうやって技が多彩になっていく」
「ユゴー、トルストイと来ると、やっぱり火剣さんが触れたドストエフスキーですかね」
仲田が言うと、すかさず火剣が乗る。
「ドストエフスキーは俺様に任せろ」
「任せられるか」
「まあ聞け。ドストエフスキーは人間の心の内部を描く作家だな」
激村は感心した。
「そうだな。小説は目に見えないものを言葉で表現しなければならない」
「ドストエフスキーは深いぜ」
「ドストエフスキーは特別な体験をしている。何しろ思想犯で投獄された経験を持つ」
「はい」
「獄中生活をリアルに描くとなると、やはり中に入ったことがある人には敵わない」
「まあ、思想犯か無実の罪が理想だな。本当に悪いことして入って特別手記が売れたりするとよう、ちょっと違うだろうと思うぜ」
「火剣さんには珍しく正義側の意見ですね」
火剣は一瞬動きが止まった。
「どういう意味だ仲田。俺様はいつでも正義の味方だぞ」
激村は講義を進めた。
「獄中生活に限らず、特別な経験は生きる。普通の人が体験しないことを体験したら、それが例え悲劇でも小説に活かせる。俳優や作家は本来マイナスである経験もプラスの体験に転じることができる」
「経験していないことは想像で描くしかないからな。例えばレイプシーンとか」
「なぜそこへ飛ぶんですか?」
「うるせえ」
「極端な例はともかく、職業なんかは経験していると強い」激村が言った。
「そうだな。職を転々とするのはサラリーマンにとってはマイナスだが、作家ならプラスに働くぜ。ウエイター、清掃のバイト、看板屋、ビラ配り、営業、倉庫内作業、引っ越し、ドライバー、デザイン会社。それぞれ数ヶ月の経験でも全部使える」
「火剣さんそんなに転々としたんですか?」
「バッファロー。俺様のことじゃねえ。例えだ例え」
火剣の意見を激村がフォローする。
「小説を書くとしたら、人生経験が豊富な人間が有利だと思う。ネタ切れにはならないだろう。でもこれは年齢や年数ではない」
「はい」若い仲田の目が光る。
「学生から売れっ子作家になった若手は、サラリーマンの経験がない。これは不利だろう。有名作家が企業に取材に行っても良いところしか見えない。パワハラやセクハラなど底辺の実態を描くことは難しい」
「簡単だ」
火剣の条件反射を無視して激村は話を続けた。
「ドストエフスキーも下積み時代に極貧生活を体験しているから、庶民の心の内部を見事に描ききる。若いうちから裕福で贅沢三昧の青年に、ある文豪が『君は不幸だ』と言った意味がよくわかる」
「若いうちから裕福なら幸福だろう?」火剣が口を挟んだ。
「このテーマは重要なので、さらに語り合っていきたい」
「はい」
「それより将軍の娘について語り合わねえか?」
「シャラップ」
「バカあの映画は深いぞ」

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